2019年4月30日火曜日

畑正吉作 皇太子殿下御結婚記念 メダル

平成最後の日に紹介するのは、このメダルとしました。
畑正吉作「皇太子殿下御結婚記念」メダルです。

1959(昭和34)年、今上天皇陛下と皇后様(あと30分程で上皇、上皇后となられますが)の御結婚を記念して制作されたメダルです。
明治15年生まれの畑正吉は、当時77歳。どのような想いでこのメダルを制作したのでしょう。きっと次の時代を想いながら、このお二人の姿を描いたのではないでしょうか?

このメダルは、畑正吉らしい誠実な仕事の中に、陛下を若干あおり気味に、皇后様を真正面にすることで、陛下の次の天皇となるという重圧と、陛下を支える皇后様という姿をも描いているようです。この姿がそのまま現在のお二人の姿に重なるという事が、畑正吉の仕事の凄みを感じます。

天皇の肖像というのものは、御真影のあった戦前が一番多くあったでしょう。
明治天皇は写真を嫌い、キヨッソーネの描いた肖像画と、晩年の横顔くらいしかありません。大正天皇の肖像画は多く出回ったのですが、如何せん期間が短く、やはり皇太子時代から肖像が描かれた昭和天皇が一番多くあったと思います。
今上天皇は、それに比べれば少ない。
これは象徴としての天皇というあり方の違いだと言えるではないでしょうか。
メダル等の肖像となるのは、肖像となった者自身を称える場合です。
今上天皇は、それを望まれなかったのかもしれません。

茴香社第一回展覧会出品 太田南海作「唄」絵葉書

太田南海は、1888(明治21)年、松本市中町生まれ。
米原雲海に入門し、「善光寺仁王像」などの制作に雲海の工房の主力として腕をふるいます。独立後は、地元松本を拠点に文展・帝展などへの出品を続けました。

絵葉書は太田南海の木彫で「唄」です。
飛鳥時代風の衣装で肩を組んで詠う女性像ですが、当時の女性がこのように声を張り上げ歌っていたのかどうかはちょっと疑問。

また、「茴香社第一回展覧会出品」とあり、色々調べてみましたがこの「茴香社」がどういった団体だったのかまったくわかりません。
茴香とはウイキョウという漢方などで用いられる植物です。
太田南海の出身地である長野県もその産地であり、「茴香社」はそういった意味を持つ団体であったのかもしれません。
もしかしたら同郷作家による展覧会か、または長野県で行われた展覧会なのかも。

上の絵葉書は、『第五回信濃美術協会展覧会出品 丸山節作「消え行く幻」』です。
「信濃美術協会」は、信州出身者による親睦団体だったようです。
信州(長野県)出身者の彫刻家は多く、荻原守衛、清水多嘉示、中村直人、そして川村吾蔵もそうですね。
また、信州の人々に農民美術を教えた石井鶴三や木村五郎などの彫刻家もいます。
長野の地は、多くの彫刻家を輩出し、また東京とは別の彫刻世界を作り出した地であったと思います。

2019年4月28日日曜日

日名子実三?戯画

これが平成最後の記事になるのでしょうか?
これまでも数々紹介してきました「日名子実三」の描いたと思われる自画像です。
もしも本当に日名子の直筆であれば貴重なモノなのですが、よくわかりません!
右下に「実三戯画」とあります。
筆跡は日名子のものと似ていますが、「豊後彫工」の印は何でしょう?
色々調べてみましたが不明です。
ちなみに下が日名子の写真です。
私が岐阜県博物館でメダルの展示をしたときに使った日名子実三の似顔絵はこちら
日名子の戯画と比べてどうでしょうか?
戯画の方がハゲすぎてるな~

2019年4月20日土曜日

故萩原守衛作 「女」絵葉書 

1910年に行われた第四回文展出品作、萩原守衛作 「女」の絵葉書です。
この作品の発表時には、萩原守衛は亡くなっており、絶作となりました。
石膏原型が重要文化財とされ、近代日本彫刻史では必ず紹介される作品ですね。


萩原守衛の絵葉書は、実は今まで一枚も持っていませんでした。
どうしても欲しかったので、この「女」の絵葉書の入手はかなり嬉しい。
というのも、私が絵葉書を集めだしたのは、萩原守衛の作品を展示する碌山美術館で、当時の手足が残る「労働者」の絵葉書を見て、こういうものが世にあるのかと思ったのがきっかけだからです。
いつか、萩原守衛の絵葉書をと思ってまして、この「女」絵葉書が、第一号となりました。

下の映像は1958年、碌山美術館施工式から開館までのあゆみです。
これは貴重な映像ですね。