2019年3月18日月曜日

The Medal Maker

凄く貴重な映像を見つけました!
1920~1930年代頃のアメリカでのメダル制作を映した映像のようです。
とはいえ、巨大な縮彫機、まだ電気鋳造でない製造方法と、かなり古い技術をわざわざ選んで撮ったように思います。
これは勉強になる!

2019年3月17日日曜日

昭和13年 大独逸展覧会 Große Deutschland Ausstellung 絵葉書

昭和13年に日本各地で巡回して行われた「大独逸展覧会」の絵葉書です。
昭和13年は日独伊三国同盟の2年前、ベルリンで行われた「伯林日本古美術展覧会」の前年にあたります。
 https://prewar-sculptors.blogspot.com/2016/12/blog-post_7.html

ナチス・ドイツがミュンヘン会談でチェコスロバキアのズデーテン地方を得た年にあたり、ヒトラーの絶頂期と言えるでしょう。
ドイツの「優れた」文化と発展の経緯を広く知らしめる為に行われたこの展覧会では、地図、写真の他に絵画や彫刻も展示されたようです。

下の絵葉書は、油彩「世界大戦の於ける英国の大攻撃に対する防衛」です。

この時代に「世界大戦」と言うのは、第一次世界大戦を指します。
第一次大戦では、日本もドイツに宣戦布告し、青島等を占領します。
戦勝国に、自国の敗戦も含めた文化のを示そうというのですから、ナチスの自信は相当のものだったと想像できます。(もちろん、ナチスにとって帝政ドイツは、否定するものだったとも言えますが)

このドイツの戦争画を見るに、藤田嗣治や宮本三郎ほど巧くは無いように見えますが、緊迫感の質が違うように感じます。
根本的には日本兵の敗北を描けなかった日本の戦争画との違いでしょうか?

また彫刻関連では、時代で分けられた軍服を着たマネキンが展示されました。
第一次世界大戦時のマネキンが、どこか卑屈で、可愛そうですね...
これらのマネキンは母国から運んだドイツ製でしょうか?
それとも日本製なのでしょうか?
当時の西欧はマネキン文化の花盛り。このマネキンもかなり良くできていると思いますがいかがでしょう。
http://jamda.gr.jp/museum/01/02.htm

最後に一人の建築家を紹介します。
当時の北海道に住み、全国各地に近代建築物を建てたスイス出身の建築家マックス・ヒンデル(Max Hinder)は、この展示の全体構成をしました。
カトリック神田教会カトリック松が峰教会など、現代も残り登録無形文化財にもなっている建築物が、彼の作品です。
そんなマックス・ヒンデルが、ヨーゼフ・ゲッベルス首相下の宣伝省と共に企画運営したのがこの「独逸展覧会」でした。
そして、彼は1940年というドイツがフランスに無血入城した年に、ドイツへ、あのヒトラーの山荘、ケールシュタインハウスのあるバイエルン州の学校へ赴任し、その地で亡くなります。
彼はただの一介の建築家だったのでしょうか?

アサヒ徽章カタログより

戦前のアサヒ徽章製作所のカタログより、末ページの記事です。


図案部の新進気鋭意匠には、彫刻家ではなく洋画家の倉垣辰夫が選ばれています。
倉垣辰夫は、大正15年東京美術学校西洋画科卒業、昭和5年第11回帝展に「曲馬団」が初入選して以来、官展に作品を発表。馬の洋画家として知られたと言います。

当時のメダル業界では、「図案家」「彫刻家」「錺師」がメダル制作に関わる技術者でした。
このアサヒの記事からは、その中でも、「図案家」にある種の権威がある、または「図案家」に「芸術」としての権威が必要とされていると言うことがわかります。

つまり、メダル業界は、芸術としてのメダルが商業化されたのではなく、職人業界が「芸術」の威を借りようとしてたのですね。
その為、彫刻家によるメダル制作と、メダル業界とは、同じ時代を進みながら、同じ技術で作製しながら、同じ市場で争いながらも、根本で交わらなかったのだろうと思います。
それはメダル業界を描いた山田盛三郎(著)「徽章と徽章業の歴史」を読んでもそう思いました。

振り返って現代を見れば、「芸術」の権威は低くなり、新進気鋭(少し名の出た)芸術家がメダルを制作したところで誰が目に留めるでしょう。
草間弥生のメダルとか、奈良美智のメダルとかが、次の東京オリンピックの記念目メダルとして出るかもしれませんが、そのレベルの作家でやっと威光があるといったところでしょうか?
どちらかと言えば、職人がその技術でもってメダルを制作したほうが、消費者の嗜好に合うのかもしれません。
時代は変わりましたね。

2019年3月5日火曜日

公共空間における日本初の女性裸体像 その2

前回の記事を書いてから、戦前の女性裸体像についての私の記憶の糸をたぐって見ました
で、思い出したのは2つ。

先ずは東京都江東区浄心寺にあります、日名子実三の蔵魄塔(ぞうはくとう)―関東大震災殃死者慰霊塔―です。

関東大震災と美術―震災は美術史にどのような影響を与えたか
http://www.kasen.net/disaster/19230901/koto02/index.htm

これは1925(大正14)年建立とされていますので、かなり早い時期の「公共空間における女性裸体像」と言えるでしょう。

もう一つは私のコレクションの中から『都新聞「裾模様募集出品記念章」メダル』で描かれた女神裸像です。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2014/12/blog-post_29.html
建築物の上に裸体の女神像が立っている姿が描かれています。
ただ、この像の情報がまったく入手できておらず、実在したかも不明ですが。

まだまだありそうですね。
「公共空間における日本初の女性裸体像」探索はこれからも続きそうです。
そして、女性裸体像だけでなく男性裸像もまた、いつから建っているのかにも興味が出てきました。
もしかしたら女性像より遅いのかも。

2019年3月4日月曜日

公共空間における日本初の女性裸体像

公共空間における日本初の女性裸体像は何か?

現在ではあちらこちらに見られる裸婦の銅像。
この国で、それが始めて建ったのはどこでしょう?

昨年のartscapeでの「彫刻を見よ——公共空間の女性裸体像をめぐって」の記事に、『『電通 一〇〇年史』および『電通創立五十周年記念誌』によれば、この《平和の群像》こそ、この国の公共空間に初めて誕生した女性裸体像である。』とあります。
http://artscape.jp/focus/10144852_1635.html
この電通の記述から感じるのは、「裸婦を公共空間に設置できる新しい日本」つまり戦前と違うという、この像に込められたプロパガンダです。
当時、この像を設置する意義として、この政治性が必要だったのでしょう。
政治性を帯びたモニュメントと言う意味に於いて、この裸婦像は戦前と変わりません。
「彫刻を見よ——」の記事の中でも、その首を接げ変えただけの日本の裸婦像のあり方を指摘しています。

では、首を接げ変える前の銅像、戦前の銅像に裸婦は無かったのでしょうか?

戦前の日本の彫刻家に於いて、彫刻は野外に設置するものだという認識があったようです。
例えば朝倉文夫の塾では、草木と共に彫刻を設置しました。
ただし、石膏のままでは野外の設置は難しく、実際に野外展が行われた記録は、私の知る限りではありません。

では石像ならどうでしょう?
たしか、北村四海だったと思いますが、彼の大理石の裸婦像を家の庭に置きっぱなししていたら、それが盗まれたとか。
庭なので公共空間とは言えませんが、それでも外から見ることの出来る場所に裸婦像はあったと言えます。

また、公共空間とは言えないし、全裸でもありませんが、博覧会場での裸婦像というのはあったようです。
これは、1936(昭和11)年に、私の地元岐阜で行われた「躍進日本大博覧会」絵葉書です。

wikiによると、『1936年(昭和11年)3月25日~5月15日(52日間)に開催。会場は岐阜公園及び長良川流域。入場者総数は約193万2,000人。
展示館は30~40館あったという。岐阜県館、岐阜市館、郷土館、愛知名古屋館、近代科学館、国防館、台湾館、満州国館、朝鮮館などがあった』とあります。

この絵葉書から想像するに、博覧会と言った限定された場所と期日であったこと、海外の裸婦像の様に噴水として庭園に設置されていること、または半裸の観音像といった様相であることから、当時における裸婦像の設置が許可されたのではないかと思います。

残念ながら、作者は不明です。
この博覧会が行われた岐阜公園には、畑正吉による板垣退助銅像がありました。
とすれば、これも畑正吉作品なのでしょうか?
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2016/06/blog-post_25.html

明治から昭和初期まで、各地で行われた博覧会会場に於ける彫刻には、多くの彫刻家が関わったようなのですが、まだまだ調べが足りてません。
そこには他にも裸婦像があったかもしれませんね。