2019年1月3日木曜日

日蓮上人銅像掛軸

福岡に現在も建っています、日蓮上人の銅像建立を記念して作られた掛軸です。

1904(明治37)年に建てられたこの像は、 彫刻家竹内久一によって原型が制作されました、日本の銅像としては初期の作品です。
その為、西郷像や楠木正成像のように木彫で原型が制作されています。

Wikiより『「日蓮聖人銅像」は、福岡県の日蓮宗徒の運動により発案され、明治25年(1892年)、東京美術学校に雛形の制作依頼が来る。翌年の4月、久一が50分の一の木彫雛形の制作に着手し、8月に雛形の銅像が完成。明治27年(1894年)2月、正式な契約が結ばれ、5月に木型の担当者に任命される。木型の制作は、校内で明治28年(1895年)1月に開始され、木曽の山中から檜を取り寄せ、翌年の6月に完成した。』



実際の銅像に似せたとは言えない、伝統的な描かれ方がなされているのは、『実際のものをリアリズムで描く」ことが共通認識としてなされていない当時の作品だからでしょうか。
この、目の前にあるというリアリズムより、伝統的な描き方を優先するという考えは、現在の私たちからすれば違和感があり、興味をひきます。
楠木正成像制作に当り図案が東京美術学校内で公募されたのですが、こういった描き方がなされていたのでしょうか?

そしてこれが、実際の日蓮像です。
この建立の後、日蓮は血盟団事件や満州事変等々の思想の柱となって行きます。
その先駆けとなったのがこの銅像でした。
ただし、立像ではありますが、左手に法華経を持つ伝統的な姿です。
1902(明治35)年に制作された高村光太郎の「獅子吼 (ししく)」や戦時に作られた日名子の日蓮像と比べれば、この掛軸の絵の様に、大きくなった仏像といった印象を受けます。
というよりも、明治から昭和初期にかけて、日蓮のイメージが竹内久一を超えていってしまったというのが正しいのでしょう。
日名子の日蓮像

2019年1月1日火曜日

謹賀新年 祝2019 筋肉彫刻!

謹賀新年!
昨年の紅白で、天道よしみの曲に合わせた「筋肉体操」が披露されたわけですが、こちらも負けじと「筋肉彫刻」です!
まずは、朝倉文夫作 第七回帝国美術院展出品「水の猛者」。
第七回帝展は1926(大正15)年。作品タイトルと彫刻の姿から水泳選手の像だと思われます。
競泳初のオリンピック金メダリストの鶴田義行でしょうか?

次は同じく七回帝国美術院展出品「望洋」、作者は横江嘉純。
なんともとりとめの無いタイトルですが、横江嘉純らしい男性美に溢れた彫刻です。

同じ男性の肉体を扱っていても、まったく毛色の違う2点。
朝倉文夫の現実の肉体美を追及する作品と、横江嘉純の理想の究極の肉体美を描こうとする作品。

前述の「筋肉体操」では、この二つのベクトルがせめぎ合い、実際に嘘のつかない筋肉が出来るわけですね。
三島由紀夫は、これらを追い求めて、理想の方が超えて行ったのでしょう。
そう思うと、横江嘉純のこういった男性美の作品は、朝倉文夫以上に危うくて面白いのです。

2018年12月16日日曜日

畑正吉によるメダル史

1937(昭和12)年に出版された『東西美術大集 : 絵画彫刻工芸」には古今東西の美術品を集め、その解説書には木村荘八、太田三郎、田辺孝次、仲田定之助、藤川勇造らが各作品について解説を行っており、当時の美術観を垣間見る事ができます。

その中に、メダル史について畑正吉が語っている文章があります。
短い文章ですが、彼や当時のメダルに関わる作家の考えを理解でき、私にとってはかなり興味深い文章です。
下にその文章を載せます。(旧仮名遣いは変えてあります。)

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工芸作品には工作の如何により大なる変化を与えるものである。
メダルの開祖伊太利のピサネロ(十四世紀)の鋳銅のメダルから、のち希臘、羅馬の貨幣と同様の方法で作られた直彫の極印(鋼鉄の鏨を以て陰刻したメダルの型)から圧印したものには、また別種の趣を呈し、今日も作られている。然るにこの期の末からじかぼりの極印即ち彫金の外に仏蘭西に於いて縮彫機械(マツシーヌ・ド・レヂュクション)を発明され、為に所用メダル数倍の塑像原型から鋼鉄へ彫刻されるようになった。
この縮彫された極印によって、さらに一変化を与えたのである。
この過渡期に際しシャプラン、シャルパンチェ、ローチなどは最も苦心し、図に見るが如き特色ある、またメダル本来の目的にかなった作品ができたのである。図の如くシャプランとローチはまだじかぼりの風を帯びているが、シャルパンチェは塑像彫刻の縮図のようであってこれは全く縮彫機械によって起った変化である。故にこの機械最初の発明者コンタマンとこれを完成したヂュヴァルとジャンヴィエの三氏も忘れることができない。
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ピサネロをメダル芸術の祖とし、シャルパンチェ(ALEXANDRE CHARPENTIER)を縮彫機を用いた近代メダルの祖としています。
芸術性だけでなく、新しい技術を以って、メダルの時代を分けているのですね。

2018年12月11日火曜日

女子中等対抗陸上競技会 東京跳躍競歩 メダル



このメダルに刻まれていることを素直に読めば、1941年(紀元2601年、昭和16年)に東京陸上競技協会主催で行われた「女子中等対抗陸上競技会」において東京跳躍競歩に出場した選手に与えられたメダルだと言えます。

ですが、よく分かりません。
まず、「女子中等」とは中等教育を受けている女性を指すのでしょうか?
であれば、それは「高等女学校」に通う女性と言う意味であり、そういった女学校の生徒のみの大会が行われたことになります。

当時の女学生と言えば、昭和に入っていると言えど、お嬢様たちだったと思います。
そういった彼女たちが行う陸上競技大会のメダルがこれだったわけです。
この、いかつい男の姿が描かれたメダルが!!!

はたして、お嬢様たちはこのメダルを受取って喜べたのでしょうか??

また、このメダルの作者ですが、銘がでかでかとあるのですが、こちらもよくわかりません。
以前、小平市平櫛田中彫刻美術館で行われ、私も参加しましたメダルの展示では、このメダルと同型の作品が展示されていました。
そちらは昭和7年に行われた「第十六回関東学生陸上競技対抗選手権」のメダルで、安永良徳作と紹介しています。
そのメダルには「Re」の刻印がありますが、私の「女子中等対抗陸上競技会 東京跳躍競歩」メダルにはありません。
そして、私の方のメダルの銘は、安永のものとは異なります。
安永作品であるのかないのか、断言できる材料が今のところありません。

2018年12月9日日曜日

日名子実三作 建築学会「建築展覧会賞」メダル


日名子実三による 建築学会の「建築展覧会賞」メダルです。

建築学会は明治期より続いている学会で、現在は「日本建築学会」と称しています。
メダルの左上に「福田欣二君」とあり、昭和8年11月に、彼が建築展覧会でなんらかの賞を得た事がわかります。
「福田欣二」は石本建築事務所顧問となった人物で、1956年出版の「建築デザイン機構の展望とその発展」の著者のようです。

メダルの中央には、ロダンの考える人のように思想する人物が、建築を連想させる幾何学的な構成の中で静かに座っています。
裏側には最古の木造建築、法隆寺の五重塔が、その前には朱雀か鳳凰か、鳥が描かれています...
鳥??
どうみてもグリフォンなのですが、こういった4つ足の鳥の像ってあるのでしょうか?

それとも、このメダルの図柄に似たような海外のメダルがあり、それを元に日名子が日本風にアレンジしたのでしょうか?謎です。
日名子の河童のメダルと並んで、リアルUMAシリーズの一品ですね。

ちなみに原型は大分県立美術館が所蔵しています。
http://opamwww.opam.jp/collection/detail/work_info/7235

戦時下の建築、建築の戦争責任について、現在までかなり色々と議論がされてきているようです。
うらやましい。
彫刻というものは、建築から他者性を抜いたものなのでしょう。
そのため、建築ほど言葉を必要としません。
その結果、彫刻の戦争責任論も他者を抜いた言葉の無いものになってしまったのではないかと思います。
であるならば、逆に考えてみても良いかもしれません。
つまり、建築に用いられた議論を参照し、戦時下の彫刻を語る言葉を捜す事ができるかもしれません。

2018年11月23日金曜日

日名子実三 作「第二回千代田生命陸上競技大会」メダル


日名子実三による「第二回千代田生命陸上競技大会」のメダルです。

今は無き千代田生命は、明治37年の設立です。
当時、このような会社主催の競技大会が行われ、多くのメダルが作製されました。
日名子も多くのメダルを制作しており、これもその一つだと言えます。

ただし、この「第二回千代田生命陸上競技大会」のメダルは、日名子の他のメダルと異なり、彼の作品に多くある写実的なモチーフではありません。
どこか古代ギリシアかローマを思わせるデザイン性の高いモチーフになっています。
二人の裸の男性走者が、太陽を跨ぎつつ、同じような体勢で重なり合い、どこかユーモアを感じさせます。
このメダル以外で、日名子のこういったモチーフは、思い浮かびません。

このメダルの原型は、大分県立美術館の所蔵となっています。
http://opamwww.opam.jp/collection/detail/work_info/7182;jsessionid=2318F598633C3EB5D769672D063AF0BF?artId=636&artCondflg=1

そこには、このメダルの原型が、「陸上競技奨励大会参加章」「東京陸上競技協会」「本院貫井間十哩競走」と幾つか使用された事が書かれています。
人気の作品だったのでしょう。
ただ制作年が昭和8年となっていますが、先に紹介しました「第二回千代田生命陸上競技大会」のメダルには、昭和7年と刻まれています。
もしかしたら、もう少し早く制作された作品なのかもしれません。

2018年11月17日土曜日

齋藤素巌 作「杉村七太郎教授」レリーフ



齋藤素巌による「杉村七太郎教授」のレリーフです。
左側に篆書で「杉村七太郎教授」と、右側に大正5年-昭和16年とあります。
下のほうに「素巌」の銘がありますね。

斉藤素巌のレリーフは、破綻なく、うまいですね!
畑正吉より線が細く柔らかい感じがします。
おっさんの像なのに、どこか色気を感じるのですよね。

そのモチーフの杉村七太郎は明治12年生まれ、腎結核の研究で知られた東北帝大(現東北大学)教授でした。
「大正5年-昭和16年」は、東北帝大教授を勤めた間にあたり、このレリーフは、それを記念したものだと思われます。
ただし、どのようにこのレリーフが用いられ、何を顕彰されたのかは不明です。
また、どういった経緯で齋藤素巌に依頼されたのかもわかりません。

それでも、先に書いたように、レリーフに用いられた文字が篆書であることから、戦前の作だと思われます。

この篆書ですが、当時のメダル等にはよく使われます。特に構造社作家によるスポーツのメダルに多い。
一瞥しただけでは読めないこの書体は、きっと「かっこいいから」とか言う軟派な理由で構造社の若手が使い始めたのではないかと悪推量します。
「杉村七太郎教授」の「村」の字が、わざわざ「邨」に変えられているのですね。これがかっこつけでなくてなんであろう?(それとも、そういう決まりがあるのか?)

はたまた、メダルという作品に用いる「印」として、印であれば篆書と使い始めたのでしょうか?

ただ、海外から学んだメダルと言う媒体に用いる書体に、篆書を用いるのは、古典回帰の手法であることは確かです。

戦時下の書体の歴史というのは、調べがいがありそうですね。