2020年8月3日月曜日

高村光雲宛の絵葉書の送り主が桜岡三四郎と判明!

先日UPした高村光雲宛の絵葉書ですが、送り主は桜岡三四郎だと教えていただきました!
桜岡三四郎は明治3年生まれの鋳金家です。
東京美術学校の鋳金科の主任、後に教授となります。
東日本大震災により崩壊してしまった仙台、青葉城跡に建つ昭忠碑の上部に取り付けられた金鵄像は沼田一雅が設計し、桜岡三四郎、津田信夫らが鋳金した代表作です。

その桜岡三四郎は、明治36(1903)年にアメリカに留学しています。
この絵葉書の消印の日付と同じですね。
桜岡三四郎は、高村光雲に無事アメリカに着いたことを伝えたかったのでしょう。

桜岡三四郎がアメリカの行く5年前の明治31(1898)年には、岡倉天心が東京美術学校を辞職することとなる美術学校騒動が起きています。
当時、美術学校助教授だった桜岡三四郎は、天心に味方して一緒に辞職。
対して高村光雲は美術学校に残ることとなります。
袂を分けたように見える二人ですが、しかし、この絵葉書を見てもわだかまりは感じませんね。
その後の桜岡三四郎が美術院と東京美術学校の両方に籍を持ち、架け橋となって働いたことを見ても、桜岡三四郎が光雲らに対して思うところは無かったのだろうと想像します。

2020年7月24日金曜日

1903年 米国から高村光雲あての絵葉書




1903(明治36)年の3月29日にニューヨークから高村光雲宛てに送られた絵葉書です。
達筆すぎてよく読めませんが、送り主はシアトル、セントポール(ミネソタ)、シカゴへと渡ったようです。

シカゴでは1893(明治26)年に行われたシカゴ万博跡地があり、日本の鳳凰殿がそこに残って建っていました。
葉書の主も立ち寄ったようですね。
鳳凰殿には高村光雲による欄間が用いられており、その報告だったのでしょう。

葉書には「銅像の沢山なる」云々とありますが、本当に読めない!
何より送り主の「松岡(?)」なる人物は誰でしょう?
高村光太郎がアメリカに渡る3年前に光雲に葉書を送るような人物...

松岡美術館の創始者、松岡清次郎かとも思いましたが、彼じゃ若いよね。
まさか、松岡洋右じゃないだろう。彼の渡米は1893(明治26)年。
あぁぁわからない!

2020年7月4日土曜日

仏教と彫刻

今回のお題は「仏教と彫刻」です。

明治以前、この国の「彫刻」的なモノのとして仏像がありました。
維新後に西洋のsculptureが輸入された結果、例えば高村光雲は自身の作品から漂う仏臭さから逃れようと試みます。
しかし、その後のsculptureを教育として受けてきた若い世代は、新たにsculptureとして仏教的なモチーフの作品を生み出していきます。
昭和初期の帝展などではそういった作品を多々見る事ができます。





一方、明治初めには廃仏毀釈があり、寺院では仏像が人々の手で破壊されます。
それを憂えたフェノロサや岡倉天心らが仏像に新たなsculptureとしての価値を見出します。
それは美術館に仏像を並べることを可能にし、現在でも私たちは仏像を信仰から切り離し、「仏像」≒「仏教」としてこれらを見ています。

彫刻家達の仏教的なモチーフの作品もまた「仏像(彫刻家達の作品)」≒「仏教」です。
作家それぞれに信心があるのかもしれませんが、それらの作品は「ART」としての価値観、または信仰で覆われたものだからです。

近代が「仏像」≒「仏教」を生んだ...とそういった話で終わればよいのでしょが、実はこの話はちょっとめんどくさい。
つまり、元来仏教にとって、「仏像」≒「仏教」であるからです。
小乗仏教、つまりお釈迦様の時代に仏教はありません。
大乗仏教、日本まで流れ着いて変形した大乗仏教にとって仏像とは、文化の象徴であり、極楽を観想したり、信仰心を集中させる道具でしかありません。
大乗仏教の空観にとって「仏に逢うては仏を殺せ」であり、仏様自体あっても無くても良い存在。
いわんや仏像など必要あろうか。
その為、廃仏毀釈では、仏像が仏教徒にとってあっても無くても良いからこそ進んで破壊したとも言われます。

しかし、さらにさらに面倒なのは、仏教にとって仏像がそういった存在だからこそ「仏像」≒「仏教」を受け入れているわけで、よって、「彫刻家達の仏教的なモチーフ」や「美術館に並べられた仏像」をも仏教として囲いこんでしまいます。
京都へ行って仏像を見て回る観光をも、興福寺の阿修羅像を好きだという仏女らも、仏教は「ありがたいことです」と囲い込んでしまいます。

ではいったい、「彫刻家達の仏教的なモチーフ」とはなんなのか?
「美術館に並べられた仏像」はなんなのか?
これらの問題を解決することなく来たことで、北村西望の長崎の平和祈念像のような...まるで仏教のような...グロテスクな作品が生まれるわけです。

しかし、仏教の良いところは「お釈迦様がこう言った」と言えばどんなものでもお経になり、そのお経それぞれに宗派を生み出せること。
つまり「彫刻家達の仏教的なモチーフ」や「美術館に並べられた仏像」は新たな宗派として考える事だってできるのではないか?
北村西望のように仏教的なモチーフをつくる彫刻家や、美術館に仏像を並べたがる学芸員ら、そして阿修羅像を好きだという仏女はその檀家なのです。
仏教の近代化は、こうした新たな宗派をつくり、現在も尚、無自覚に信徒を増やしているわけです。

2020年6月24日水曜日

日名子実三作 大友宗麟公銅像除幕式記念 メダル




昭和12年に大分新聞社主催による大友宗麟公銅像の除幕式記念が行われました。
銅像の作者は日名子実三。
このメダルはその除幕式を記念して制作されたものです。

建立地は大分県大分市勢家町 神宮寺浦公園。
銅像の台座には『銅像を建設し以て遺徳を顕彰すると共に永く郷党発奮の源泉たらしめん事を期す』と刻まれています。
しかし、この大友宗麟公銅像は大東亜戦争中の金属回収令によって台座のみとなります。
ただ現在は、彫刻家長谷秀雄によって再建され同地で拝むことができるようです。

戦時中は多くの銅像が回収されました。
戦後も同様に戦争に関連した銅像は取り壊され捨てられます。
そして現代もまた銅像はうち捨てられています。




以前も「銅像受難の現代」と題して書きました。
銅像という人の形を模したモニュメントは、常に破壊され、捨てられる運命なのでしょうか?

確かに諸行は無常であり、常に『遺徳を顕彰する』ことも『共に永く郷党発奮の源泉たらしめん事』も難しいのでしょう。
もしかしたら銅像とは壊されるまでが一つのセット。
失う事も含めて「銅像建立」と言うのではないか。
そんなことを思います。

建立者のどんな想いも、時代の中で解釈が変わり、新たな想いの対象として破壊される。
または良い意味でも悪い意味でも忘れ去れ、不要となる。
それが「銅像」なのではないか。
鳥の糞だらけで誰もが誰かわからない銅像。
人身御供のように倒され、燃やされ、引きずり回され、挙句に海に投げ捨てられる銅像。
人を模した銅像は、建立時と同じように捨てられる姿も一つの祭事なのです。
今でも想いを背負った人形を川に流す祭事がありますが、銅像もまたそういった呪をもったモノなのではないか。
そして、そこに銅像が銅像たる所以、役割があるのではないかと思うのです。

ですから、どんどん世にある銅像を倒してしまえば良いのでしょう。
台座さえも失って、そこに何があったか忘れて行けば良いのでしょう。
猿の惑星の自由の女神像のように、まるで山や川がただそこにあるように。
私のような好事家がちょっと思い出す...それくらいでちょうど良いのでは。

2020年6月19日金曜日

大正14年発行 彫刻雑誌「ハニベ」創刊号 その2

この雑誌を読みたいとのご希望がありましたので「ハニベ」創刊号の前頁を載せます。
画像で申し訳ないのです。写真も写りが悪くてすみません。
うまく曲げられなかった頁は別撮りしています。
読めますでしょうか??



















2020年6月13日土曜日

大正14年発行 彫刻雑誌「ハニベ」創刊号






若き彫刻家たちが集まった「ハニベ会」は、大正14年に銀座松屋で彫塑小品展覧会を行い、会の雑誌としてこの「ハニベ」を創刊しました。
参加作家は、大塚辰夫、小野田高節、片岡角太郎、唐杉誠一、吉田久継、武田梁、都賀田勇馬、中村甲藏、清水彦太郎、日名子実三です。
朝倉文夫

この雑誌にこの写真!
貴重ですね!

ただこういう癖のある芸術家が集まって作ったような雑誌は長続きしない。
「ハニベ」は何号まで続いたのかしら?

この創刊号では13ページしかないところに、後半になるにつれ芸術漫談や作家の滑稽話とネタが尽きてきます。
お高くとまる「芸術」と異なり、武田梁の言うところの「極平民的な彫塑の小品展覧会を開催して、世間の人々が容易に吾等の作品を手に入れる事の出来るようにしよう」を会の主義方針にした結果、こういう雑誌になったのでしょう。

雑誌創刊の一昨年、大正12年には関東大震災があり、芸術家たちは社会に向けて何かできないかと考えます。
今和次郎ら作家たちが焼け跡に建てられたバラックにペンキで絵を描いた装飾バラック装飾社もその一つであり、その活動には日名子実三も参加しています。
「ハニベ会」もそういった考えを持った団体だったのでしょう。
しかし、『極平民的な彫塑』の書きっぷりが逆にお高くとまる「芸術」に対する拘りを感じますね。

それと、興味深かったのが「祝発刊」ページに書かれた方々です。

貴金属宝石商 大西錦綾堂、外山建築事務所 外山金作、鎮銅彫刻 石井商店、石膏師 松平新吉、石膏師 西沢寅吉、鎮物師 岡本謙三、鎮物師 角川朋吉 喜八、白井運送店等々...
産婆さんもいます。何故?
こういう作家周辺の方々の名前を眺めると、当時の世界が彩色されて見えてきますね。

2020年5月29日金曜日

式場隆三郎の手紙




本日は番外編。
私の小さなコレクションより式場隆三郎の手紙です。
大阪の平瀬俊一宛ての手紙ですが、式場の達筆すぎる字でほとんど読めません!
このようにメダルや絵葉書の他に式場隆三郎に関わるモノを細々とコレクションしています。

式場隆三郎といえば、精神科医で医学博士、詩人で小説家、山下清のプロデューサーにしてゴッホ研究家...
肩書はそれこそ多くありますが、彼を一言で言えば「美の啓蒙家」であったと言えるでしょう。

啓蒙家...今となっては死語となった言葉ですね。教養主義の没落、反知性主義なんて言われる昨今では、式場の啓蒙は暑苦しいだけでしょう。
「美」が多用であり、ゆえに価値があると言うのならば、そもそも啓蒙など必要ないのですし、それを指さし「美」だいう必要はありません。
個々人が「美」だと感じたものをそのまま受け入れれば良いだけで、美術館でわざわざ観賞する類のものではないのでしょう。
それでも強欲な私たちは更なる「美」を目指してアートなんていう醜い怪物を飼いならそうとしています。

その欲の権化こそが式場隆三郎です。

そして現在、広島市現代美術館にて「式場隆三郎:脳室反射鏡」展が行われています。
コロナで開催が延期されていましたが、やっと始まりました。
この時代になぜ式場隆三郎なのか?
それがこの展覧会のキーワードではないかと思っています。
それは何故私が式場隆三郎に惹かれるのかという自問でもあります。
「啓蒙されるべき美」は現代にすでに無く、まさに神の死んだ世界で、式場隆三郎は風車に向かうドン・キホーテに見え、私はそれを無償に(逆説的ですが)美しく思うのです。
そして、この「式場隆三郎:脳室反射鏡」展もまたドン・キホーテなのではないでしょうか?
是非見に行きたいです。