2018年12月11日火曜日

女子中等対抗陸上競技会 東京跳躍競歩 メダル



このメダルに刻まれていることを素直に読めば、1941年(紀元2601年、昭和16年)に東京陸上競技協会主催で行われた「女子中等対抗陸上競技会」において東京跳躍競歩に出場した選手に与えられたメダルだと言えます。

ですが、よく分かりません。
まず、「女子中等」とは中等教育を受けている女性を指すのでしょうか?
であれば、それは「高等女学校」に通う女性と言う意味であり、そういった女学校の生徒のみの大会が行われたことになります。

当時の女学生と言えば、昭和に入っていると言えど、お嬢様たちだったと思います。
そういった彼女たちが行う陸上競技大会のメダルがこれだったわけです。
この、いかつい男の姿が描かれたメダルが!!!

はたして、お嬢様たちはこのメダルを受取って喜べたのでしょうか??

また、このメダルの作者ですが、銘がでかでかとあるのですが、こちらもよくわかりません。
以前、小平市平櫛田中彫刻美術館で行われ、私も参加しましたメダルの展示では、このメダルと同型の作品が展示されていました。
そちらは昭和7年に行われた「第十六回関東学生陸上競技対抗選手権」のメダルで、安永良徳作と紹介しています。
そのメダルには「Re」の刻印がありますが、私の「女子中等対抗陸上競技会 東京跳躍競歩」メダルにはありません。
そして、私の方のメダルの銘は、安永のものとは異なります。
安永作品であるのかないのか、断言できる材料が今のところありません。

2018年12月9日日曜日

日名子実三作 建築学会「建築展覧会賞」メダル


日名子実三による 建築学会の「建築展覧会賞」メダルです。

建築学会は明治期より続いている学会で、現在は「日本建築学会」と称しています。
メダルの左上に「福田欣二君」とあり、昭和8年11月に、彼が建築展覧会でなんらかの賞を得た事がわかります。
「福田欣二」は石本建築事務所顧問となった人物で、1956年出版の「建築デザイン機構の展望とその発展」の著者のようです。

メダルの中央には、ロダンの考える人のように思想する人物が、建築を連想させる幾何学的な構成の中で静かに座っています。
裏側には最古の木造建築、法隆寺の五重塔が、その前には朱雀か鳳凰か、鳥が描かれています...
鳥??
どうみてもグリフォンなのですが、こういった4つ足の鳥の像ってあるのでしょうか?

それとも、このメダルの図柄に似たような海外のメダルがあり、それを元に日名子が日本風にアレンジしたのでしょうか?謎です。
日名子の河童のメダルと並んで、リアルUMAシリーズの一品ですね。

ちなみに原型は大分県立美術館が所蔵しています。
http://opamwww.opam.jp/collection/detail/work_info/7235

戦時下の建築、建築の戦争責任について、現在までかなり色々と議論がされてきているようです。
うらやましい。
彫刻というものは、建築から他者性を抜いたものなのでしょう。
そのため、建築ほど言葉を必要としません。
その結果、彫刻の戦争責任論も他者を抜いた言葉の無いものになってしまったのではないかと思います。
であるならば、逆に考えてみても良いかもしれません。
つまり、建築に用いられた議論を参照し、戦時下の彫刻を語る言葉を捜す事ができるかもしれません。

2018年11月23日金曜日

日名子実三 作「第二回千代田生命陸上競技大会」メダル


日名子実三による「第二回千代田生命陸上競技大会」のメダルです。

今は無き千代田生命は、明治37年の設立です。
当時、このような会社主催の競技大会が行われ、多くのメダルが作製されました。
日名子も多くのメダルを制作しており、これもその一つだと言えます。

ただし、この「第二回千代田生命陸上競技大会」のメダルは、日名子の他のメダルと異なり、彼の作品に多くある写実的なモチーフではありません。
どこか古代ギリシアかローマを思わせるデザイン性の高いモチーフになっています。
二人の裸の男性走者が、太陽を跨ぎつつ、同じような体勢で重なり合い、どこかユーモアを感じさせます。
このメダル以外で、日名子のこういったモチーフは、思い浮かびません。

このメダルの原型は、大分県立美術館の所蔵となっています。
http://opamwww.opam.jp/collection/detail/work_info/7182;jsessionid=2318F598633C3EB5D769672D063AF0BF?artId=636&artCondflg=1

そこには、このメダルの原型が、「陸上競技奨励大会参加章」「東京陸上競技協会」「本院貫井間十哩競走」と幾つか使用された事が書かれています。
人気の作品だったのでしょう。
ただ制作年が昭和8年となっていますが、先に紹介しました「第二回千代田生命陸上競技大会」のメダルには、昭和7年と刻まれています。
もしかしたら、もう少し早く制作された作品なのかもしれません。

2018年11月17日土曜日

齋藤素巌 作「杉村七太郎教授」レリーフ



齋藤素巌による「杉村七太郎教授」のレリーフです。
左側に篆書で「杉村七太郎教授」と、右側に大正5年-昭和16年とあります。
下のほうに「素巌」の銘がありますね。

斉藤素巌のレリーフは、破綻なく、うまいですね!
畑正吉より線が細く柔らかい感じがします。
おっさんの像なのに、どこか色気を感じるのですよね。

そのモチーフの杉村七太郎は明治12年生まれ、腎結核の研究で知られた東北帝大(現東北大学)教授でした。
「大正5年-昭和16年」は、東北帝大教授を勤めた間にあたり、このレリーフは、それを記念したものだと思われます。
ただし、どのようにこのレリーフが用いられ、何を顕彰されたのかは不明です。
また、どういった経緯で齋藤素巌に依頼されたのかもわかりません。

それでも、先に書いたように、レリーフに用いられた文字が篆書であることから、戦前の作だと思われます。

この篆書ですが、当時のメダル等にはよく使われます。特に構造社作家によるスポーツのメダルに多い。
一瞥しただけでは読めないこの書体は、きっと「かっこいいから」とか言う軟派な理由で構造社の若手が使い始めたのではないかと悪推量します。
「杉村七太郎教授」の「村」の字が、わざわざ「邨」に変えられているのですね。これがかっこつけでなくてなんであろう?(それとも、そういう決まりがあるのか?)

はたまた、メダルという作品に用いる「印」として、印であれば篆書と使い始めたのでしょうか?

ただ、海外から学んだメダルと言う媒体に用いる書体に、篆書を用いるのは、古典回帰の手法であることは確かです。

戦時下の書体の歴史というのは、調べがいがありそうですね。

2018年10月21日日曜日

「銅像建立記念」の印のある書


「銅像建立記念」以外は何が書いてあるのかさっぱり!
崩し字の解読など、色々検索してみましたが、よくわかりませんでした。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html

まぁ、気長に情報収集していきます....

2018年9月30日日曜日

戦前のモニュメント考察 ―忠霊塔はなぜ立方体なのか?ー




前回の「歩兵第三連隊戦跡記念碑」を設計した須藤徳久は、どうやら東京美術学校彫刻科卒の人物のようです。帝展に入選までしているのですが、その後はどうなったのでしょう?もしかしたら兵隊として出兵されたのでしょうか?気になります。

このように、当時の忠霊塔を含むモニュメントは、彫刻家の仕事でもあったのですね。
「構造社」の作家や、戦時下の多くの作家たちは、モニュメントにたいし(実現できたかどうかは別として)強く関心を示しました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2012/11/blog-post_5.html

ここで気になるのは、なぜ当時の忠霊塔が記念碑と同じ形をしているのか?です。
双方共に高く細く聳え立つ立方体であるのはなぜでしょう?

記念碑がそういった形なのはわかります。
当時の海外のモニュメントがそういった形であったため、モニュメントという概念を輸入した当時に於いて、その形も取り入れられたのだと思います。

しかし、忠霊塔は、そういった記念碑とは用途が異なります。
下の図に示すように、納骨室があるなど死者にたいする信仰と結びついた構造物です。
日本の信仰を表す構造物が、なぜ西洋のモニュメントの形態であるのでしょうか?



忠霊塔は、もともとあった忠魂碑の延長上にあると考えられています。
つまり、それ以前からあった石碑の一つなんですね。
石碑を建てる文化は、日本古来の信仰の形としてある巨石信仰の名残だと思われます。
現在でも、奈良の三輪山では、巨石を奉った場所があるそうです。

このような忠魂碑では、形状に於いて記念碑と変わりがありませんでした。
次にこの忠魂碑は、立方体の石の柱に文字を刻んだ慰霊標(記念標)に移り変わります。
慰霊標は、霊標や卒塔婆をより大きくしたものと言えばよいのでしょうか。石碑にあった自然の形状ではなく、より抽象化し、イメージのみで取捨されたモノでした。

ここで、抽象化された形態を持つ西洋のモニュメントと日本の信仰(慰霊標)が重なります。
石碑では、記念碑と忠魂碑が同じものでったため、記念碑(モニュメント)と慰霊標もまた同じものと考えられたと思われます。
さらに、慰霊標は忠霊塔となって、よりモニュメントに近づいたということだと思います。


忠魂碑は古代神道の影響を受け、慰霊標は霊標や卒塔婆など仏教の影響があるようです。
忠霊塔は日名子の「八紘之基柱」が国家神道の影響下で出来たように、神道の影響が強く見られます。
「八紘之基柱」の「柱」とは神道の神を数え方であり、古来から「柱」は依代として用いられてきました。
忠霊塔は、日本の信仰心を表す形状でありながらも西洋のモニュメントと重なるというハイブリットになり、それを当時の日本人は特に違和感なく、忠霊塔=モニュメントを受け入れたわけです。

ここで、不思議に思うことがあります。
忠霊塔は国家によって全国の市町村に建立を求められたわけですが、それはミニ靖国神社として、靖国神社を頂点とするヒエラルキーに収めるためのシンボルとして設置ました。
しかし、その靖国神社のシンボル、参拝対象は「柱」ではありません。
大村益次郎の像はありますが、信仰対象ではありません。参拝者は社殿で参拝するだけです。
仏教に於いても、仏舎利のような塔はありますが、日本では特に信仰対象ではありません。
つまり、神道でも仏教でも塔に対する信仰が強くあるわけではないのですよね。

神道、仏教共に、垂直への信仰上の志向は、あまりないように感じます。神道で天孫降臨や仏教での西方浄土より迎えに来る阿弥陀の信仰等ありますが、実際に空を見上げて祈ることは行いません。

忠霊塔は、そういった体系化された信仰ではなく、墓や位牌などといった市井の信仰の形に沿ったものなのだと思います。
そういった市井の信仰ゆえに、西洋のモニュメントと結びつくことができたのかもしれません。

こう考えた時、忠霊塔は、西洋のモニュメントという「美術」が日本に本地垂迹したモノと言えます。
私たちの信仰という「心」に西洋の美術が馴染んでいったと言うのでしょうか。
忠霊塔は、戦争と言う国家主導によって生まれたモノですが、それでも、日本に於ける「美術」の一つだったのだと思います。

2018年9月24日月曜日

「功烈不朽」歩兵第三連隊戦跡記念碑 須藤徳久設計




須藤徳久設計による歩兵第三連隊戦跡記念碑です。
紀元2591年とありますので、1931(昭和6)年に配布されたものだとわかります。
1931年は満州事変が起こった年ですね。

この年、第三連隊がどういう動きをし、どうして記念碑の作製に至ったのか、よく分かりませんでした。
そして、この記念碑が忠霊塔を模しているわけもです。
この忠霊塔は実際に建てられたのでしょうか?
また、なにより不明なのは、この忠霊塔の設計者である「須藤徳久」という人物です。
この人は、いったいどういった人物なのでしょう?
ネットでは、いくら検索しても見つける事ができませんでした。
市井の建築士なのでしょぅか?
しかし、そういう人物が第三連隊戦跡の設計をするのも疑問です。

このような忠霊塔は、全国津々浦々建てられ、現存するものもあります。
だからこそなのでしょうか。未だに全貌が把握できていないように思えます。
丹下健三のような有名どころではない、当時の無名な建築士の仕事も、当時の状況を知る上で大切なデータではないかと思います。