2019年6月26日水曜日

黄土水の映像 YouTubeより

台湾出身の彫刻家、黄土水(Huang Tu-Shui)の映像を集めてみました。
日本統治時代の台湾から初めて東京美術学校に入学、官展に入選するなど活躍しましたが、1930(昭和5)年に35歳で亡くなります。

黄土水が、近代化を経た(と考えている)日本人から見た未近代(と考えている)の台湾を内在化しなければならなかった事、その上で自身の個(芸術)と向き合わなければならなかった事...
彼の作品には、考えなければならない事が多くあると思います。


声で伝える美術館(第九回)黄土水《台湾近代彫塑の先駆》

【台灣百年人物誌】雕刻家黃土水

【民視台灣學堂】台灣美術一世紀:台灣雕刻家黃土水 作品充滿台灣鄉土關懷
 2017.06.20—李欽賢

清涼音文化 蕭瓊瑞教授:田園牧歌---台灣近代雕刻先驅黃土水

2019年6月23日日曜日

Intermission 荻野真「孔雀王」と岡倉天心の美術

漫画家荻野真さんがお亡くなりになりました。
http://www4.airnet.ne.jp/kujaku/
彼の「孔雀王」は、中学生の頃の私に強い影響を与えた作品の一つです。
同郷の作家として、強いシンパシーを受けていました。

「孔雀王」の特徴は、古今東西のオカルトのごった煮です。
あのオウム真理教の事件で、宗教のごった煮と言われたその教義に既視感があったのは、私に「孔雀王」などのオカルト漫画にはまっていた子供の頃があったからでしょう。
オウムの信徒もまた同じ素地があったのではと思います。

そんな「宗教のごった煮」は、当時のオカルト好きの妄想だったのでしょうか?
いえ、戦前の歴史を調べていくと、そうではなかったことがわかります。
あの大東亜戦争で日本の宗教人や知識人は、アジアにおける宗教の統一を望んでいました。「八紘一宇」はそういった意味を含んでいたんですね。

「八紘一宇」を生み出した田中智学は、天皇信仰と日蓮宗とを結びつけ、そしてその信仰を世界唯一の信仰にすべきだと考えます。

日蓮主義は即ち日本主義なり、日蓮上人は日本の霊的国体を教理的に解決して、末法万年宇内人類の最終帰依所を与えんがために出現せり。本化の大教はすなわち日本国教にして、日本国教はすなわち世界教なり

田中智学の思想では、多くの宗教があるがその根本は一つの「教え」であり、その根本を示すのが『日本国教』であると言います。

また、アジア主義者の大川周明は、19歳頃の論文で「宇宙の大霊と合致すること」が人間の目的であると言います。そして彼は既存宗教を統一し社会主義革命を起こすことを目指します。

そんな大川がサポートした人物がインド独立運動家のラージャ・マーヘンドラ・プラターブです。
彼は、既存宗教を超えた「愛の宗教」を示し、その信仰によって世界を統一、国家をも超えて「世界連邦」の確立を説きました。

このような宗教を一つし、新たな信仰世界を確立しようとする運動は同時代的に起きていたのですね。

例えば、インドの宗教家ヴィヴェーカーナンダは、1893年にシカゴで行われた万国宗教会議で「多様性の中の単一」「一切のものの中心には、同一性が君臨」とすべての宗教が持つ真理の単一性、同一性を説きました。

そのヴィヴェーカーナンダと意を合わせたのが岡倉天心でした。
彼の『不二一元』論、全てのものは根元にて一元化されるという考えは、ヴィベーカーナンダの思想の影響を受けています。そして天心はその意味で「アジアは一つ」と説いたわけです。

「八紘一宇」「アジアは一つ」は戦時中の日本を正当化する言葉となりました。
そしてその思想は、戦後オウム真理教の教義に受け継がれていったわけです。
オウムの事件は、戦時下日本宗教の徒花だったのですね。
否定しづらいわけです。
(ちなみにインドの『不二一元』論は、ニューエイジにも影響を与え、この流れの果てにオウムもあります。)

岡倉天心は日本美術もまた『不二一元』の表れだと考えます。
その薫陶を受けた彫刻家たちは、自らの仏臭い彫刻観を超克するために天心の思想を求めたのだと思います。

つまり、近代の日本彫刻と「孔雀王」やオウム真理教は、同じ潮流にあったと言えます。
だからこそ私は、子供の頃のオカルトに触れた時と同じ奇妙な魅力を近代彫刻に感じているのだと思います。

2019年6月9日日曜日

百貨店のパノラマ「紀元二千六百年奉祝展覧会」記念絵葉書

現在、高島屋史料館TOKYO 4階展示室で行われています「パノラマとしての百貨店」に便乗して、百貨店のパノラマを紹介します。
「パノラマとしての百貨店」は百貨店のパノラマ的な展開を紹介する展覧会のようですが、ここでは字のとおり、百貨店で展示されたパノラマです。

まずは、日本のパノラマについての薀蓄。
明治23年、上野に「パノラマ館」という見世物小屋が建てられました。
円形の建物に360度の絵や模型を配し、日清戦争などをテーマにし、観客を集めました。
「パノラマ館」は明治の終わり頃に衰退しますが、変わってその一部を切り取ったジオラマが制作されます。
これらの制作に関わったのが、当時の画家や彫刻家でした。

今回紹介する絵葉書は、大阪松坂屋の「紀元二千六百年奉祝展覧会」
紀元二千六百年、1940(昭和15)年ですが、この年に全国各地で記念行事が行われました。
当時のハイカラ文化の中心を担っていた百貨店も同様に記念展覧会を行います。
そして、大阪松坂屋にて行われたのが下記のようなパノラマ(ジオラマ)の展示でした。


 橿原奠都(紀元元年頃)とあるように、この造形物は神武天皇が即位したその場を描いたもののようです。
精巧に作られた人物像に当時のものと考えられていた装いをさせています。
後ろを向いて座っているのが神武天皇でしょうか?
もしかしたら竹内久一の神武天皇像の様に、明治天皇像の姿に似せた姿であったかもしれません。
この像の製作者は誰だったのでしょう?
彫刻家か、または生き人形の系譜の作家でしょうか?
 こちらは奈良時代の糸つむぎをする女性を描いたパノラマ。

そして、こちらは「近古の商売」ジオラマです。


こういった展示は、帝国京都博物館の監修が入っていたのではと推測します。
現在でも博物館では、こういったパノラマ(ジオラマ)の展示はありますね。
けれど、全てをリアルに見る事は決して良いことと言うわけではないんです。

パノラマ(ジオラマ)というのは、時間を固定してしまうという彫刻の持つ「虚構」を明示してしまうように思います。
そこばかりが気にかかるのです。
その虚構にさらに虚構を重ねる...それが杉本博司の「ジオラマ」シリーズでしょう。
この絵葉書を眺めていると、彼の作品の様に見えてきます。

彼の「ジオラマ」シリーズは近代の彫刻の問題でもあるだと思います。
彫刻は時間を止めるという「虚構」の上に、ARTであるという「虚構」を重ねることでなりたっている...
いや、それ以上の問題を含んでいるのかも。
それを例えるなら、広島にある「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と書かれた原爆死者慰霊碑を、時間を止めた「虚構」であると叫びつつ、その虚構性に乗っかるような...それが「彫刻」であり「近代」であり、この「世界」なのだと表明されたような...

私たちはこの絵葉書にある「紀元二千六百年」の姿を、そんな馬鹿なと笑い飛ばすことができます。
これらが模型であるように、リアルな姿ではない。当時のそれをリアルだと考えたかった人々の「虚構」だと。
では、私たちは「虚構」の無い世界に生きていると言えるのでしょうか?
その虚構性に更に『虚構」を重ねて生きているだけでは?
『歴史」はその『虚構」の断面でしかないのでは?
そんなことを考えてしまいました。

2019年6月2日日曜日

第五回帝展 山崎朝雲 作 頭山翁 絵葉書

山崎朝雲は、慶応3年生まれ。
明治29年に高村光雲に師事します。
明治34年に、福岡市東公園に「亀山上皇」銅像建設。
そして、平櫛田中・米原雲海らと日本彫刻会を結成...
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8812.html

当時の主要な彫刻家を年齢別に並べます。
高村光雲(1852生れ)-山崎朝雲(1867)新海竹太郎(1868)米原雲海(1869)-平櫛田中(1872)-朝倉文夫・高村光太郎(1883)

山崎朝雲は、光雲と平櫛田中との間の世代になります。新海竹太郎や米原雲海と同期ですね。「彫刻」という概念が日本に渡り、朝倉文夫や高村光太郎のように血肉化する直前の作家だと言えるでしょう。
その中で新海竹太郎ほど西洋よりにならず、「日本」にこだわったのが山崎朝雲です。
つまり「仏師」臭さが抜けないことにこだわり続けた作家...それが山崎朝雲だと思うのです。

山崎朝雲は、先の日本彫刻会の会長であった岡倉天心の影響を強く受け、日本木彫の近代化を目指します。とはいえ、岡倉天心の唱えた「Asia is one.」は日本を超えてアジア全体を視野に入れたものでした。天心の理想の中では、「日本」にこだわっていてたわけではありません。
しかし、その天心の「アジア主義」は、戦時下に於いて「日本(皇室)を中心としたアジア」に変わります。
その二つの「アジア主義」を橋渡しする思想を持ち、当時の日本に大きな影響を持っていたのが頭山翁、つまり右翼の巨頭「頭山満」と玄洋社でした。

頭山満は、日本の政治と戦争の裏側で暗躍すると同時に、朝鮮の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行います。
それは、岡倉天心の空想・理想を現実的な政治運動にしたとも言えるでしょう。

そんな「頭山満」の像を制作したのが山崎朝雲でした。
1924(大正13)年の第五回帝展に山崎朝雲作「頭山翁」は出品されます。
この年の11月には、頭山満に会った孫文が、神戸で「大アジア主義講演」を行い、「日本は西洋覇道の鷹犬になるのか。東洋王道の干城になるのか」と述べ、アジアの仁義道徳を、世界秩序の基本にすべきであると主張します。
こうした激動の時代の中で、山崎朝雲は、岡倉天心の理想を現実化する人物として「頭山翁」を制作したのだと思います。

ちなみに、千葉県市川市の法華経寺にある「頭山満」銅像は、この山崎朝雲の立像を胸像にしたものに見えるのですが、どうでしょう??https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/e6/15a654e1a4a369ca718e9bc65a5251a4.jpg

重い話が続いたので、私の好きな山崎朝雲の作品「同級生の吊辞」
吊辞の「吊」は「弔う(とむらう)」の意味です。
つまり「弔辞(ちょうじ)」、死者をとむらう言葉を読む女学生の図なんですね...
可愛い作品なのだけどね...
結局重い話で終ります。

2019年6月1日土曜日

清水三重三作「唄」木彫



私の所有する少ない木彫のうち、清水三重三作「唄」を紹介します。

清水三重三は、その名のとおり三重県四日市の生まれです。
構造社の作家には珍しく木彫をも行い、更に戸張弧雁のような挿絵画家として活躍します。
彫刻家と挿絵に就て

で、この「唄」ですが、清水はこのモチーフでいくつか作品を制作しているようです。
まずは、1922(大正11)年の平和記念東京博覧会出品作です。



平和記念東京博覧会は、第一次世界大戦終結後の平和を記念し、上野公園で行われた戦前では最大級の博覧会です。
2013年の本ブログで、いくつかの出品作を紹介しましたね。
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/06/blog-post_9.html

さすがに、この出品作の方が手が込んでいます。
しかし、お顔は所有作品の方が良いかな~

そして、これは平塚市にあります平岡クリニックのサイトより、
絵のある待合室113」で紹介された「唄」です。(良い作品ばっかりですよねェ~ウラヤマシイ...)
よく見ると、脇差の色が私の所有と異なりますね。

いつか、これらの作品を全部並べて展示してみたいです!

2019年5月26日日曜日

原型 畑正吉 謹作 時事新報付録 明治天皇像レリーフ




エンボス加工とは、凸凹模様を彫った押し型で強圧し、浮き出し模様を作る加工を言います。
このようなエンボス加工は、日露戦争後の多種多様のデザイン絵葉書が販売される絵葉書ブームの中で、多く制作されました。

画像で紹介しました明治天皇をモチーフにエンボス加工で制作された時事新報付録は、明治天皇崩御を記念して制作された物でしょう。
そして、彫刻家畑正吉によって制作された原型を用いています。

畑正吉は、東京美術学校の学生時代に児玉大将の紙型打出し(エンボス加工)像を制作しています。
この時、その加工制作に力を貸したのが紙の加工会社「尚山堂」の創立者浅野鉢太郎の3兄弟の一人、水野倶吉でした。
水野倶吉は、森永製菓のミルクキャラメル紙箱の考案者です。この箱入りキャラメルは、上野公園で開催された大正博覧会でお披露目され、ヒット商品となりました。

実は、彫刻家が粘土で制作した原型を石膏にし、それを縮彫機にかけて押し型原型を作るまでは、メダルの制作と同じです。
この押し型原型を金属に用いればメダルに、紙に用いればエンボス加工となるわけです。
その為、後にメダル制作の大家となる畑正吉が、こうした紙の加工制作に関わったわけですね。
ですから、このエンボス加工の歴史を追えば、近代彫刻の歴史に更に深みを与えることになるのではないかと思います。
しかし、彫刻家によるメダルの歴史と同様に、彫刻家によるエンボス加工の歴史もまた、語られていない歴史です。
更なる探索が必要のようです。

ちなみに、この明治天皇の肖像ですが、エドアルド・キヨッソーネのコンテ画を撮影した「御真影」の像を浮き彫りにしたものです。
つまり、畑正吉の手によって平面写真だったものを半立体化したわけですね。
それは明治天皇のお姿と共に、勲章も同様です。(当時の畑正吉がこれらの勲章を手にとって見ることはできなかったでしょう)
その経験は、後に畑正吉が数々の記念章や文化勲章を制作したことの糧となった...のかもしれません。

2019年5月18日土曜日

日名子実三作 第一回軍事援護美術展出品「サイパン」絵葉書

今までに何度か紹介してきました、この日名子の「サイパン」。
彼の最後の発表作であり、謎の多い作品です。

まず、この作品は女性なのか、男性なのか?
女性であったとして兵隊なのか?
「サイパン」とは、日本軍が全滅した「サイパンの戦い」を描いたものなのか?

現状で分かっているのは、この作品が1944(昭和19)年の10月に行われた第一回軍事援護美術展に出品されているということだけです。

この謎を解くために、まずは当時「サイパンの戦い」が一般的にどのようにイメージされていたかを知らなくてはなりません。そして、特にサイパンにいた女性たちががどのように語られたのか知りたい。
そのため、フェミニストで女性史研究家の加納実紀代の著書『「銃後史」をあるく』より『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』をもとにまとめてみたいと思います。

まず、当時の日本国民がサイパン陥落を知ったのは、南雲中将が自決し、全軍が玉砕突撃した1944年の7月7日から10日後の7月18日
この日のラジオによって大本営発表が伝えられます。

そして一ヵ月後の8月19日。朝日新聞の一面トップに『壮絶・サイパン同胞の最後/岩上、大日章旗の前/従容、婦女子も自決/世界驚かす愛国の精華』の見出しが掲げられます。これは、アメリカのタイムの記者ロバート・シャーロッドによるサイパンでの民間人死者にたいする記事を、大本営発表の内容に合わせ、殉死として変容した内容でした。
この記事では、『悠然、黒髪を櫛けづる』の小見出しで『(米軍の)海兵は女達が岩の上に悠然と立って長い髪を櫛けづるのを見てびっくりした』『息を殺してみつめているとやがて日本の女達は互いに手を取りあって静に水中にはいって行った』と入水自殺の情景を語っています。

21日には報知新聞でも『サイパン同胞かく自決せり 悲壮絶す!従軍記者の筆に偲ぶ実相』とタイムの記者による記事を取り上げ、『兵士自決の模範示す/婦女は黒髪梳って死出の化粧』とします。

さらに8月23日の朝日新聞では、高村光太郎や作家林芙美子、歌人中河幹子にこの殉死について語らせ、高村光太郎はその女性を『古代の穢れなき心」と評します。

そして、その1ヵ月強後の10月4日、第一回軍事援護美術展があり日名子の「サイパン」が発表されるわけです。

この「サイパン」が「サイパンの戦い」を示していることは間違いないでしょう。
ただし、サイパンの戦いで女性兵士がいたのかどうかは、『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』には書かれていませんでした。

しかし、前述のとタイムの記者ロバート・シャーロッドが1945年に出版した「On to Westward: The Battles of Saipan and Iwo Jima」では、『サイパンの在留邦人女性がアメリカ軍部隊に向け小銃を乱射し、最後に足を撃ち抜かれ野戦病院に収容された話が掲載されている』そうです。
Wiki
また、サイパンの戦いで自決を試み重傷を負うもアメリカ軍に救助された従軍看護婦の菅野静子が“サイパンのジャンヌ・ダルク”と1944年7月25日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで報道されたのだそうだ。
ただし、これらの情報を当時の日本人が知りえたのかはわかりません。

在留邦人女性と従軍看護婦...そのどちらも日名子の像とは異なります。
この像は、腰に弾薬盒を下げ、銃を立てかけながら、長い髪を梳かす姿です。
もしかしたら、「黒髪を櫛けづる」亡くなった女性と、米兵に乱射した在留邦人女性、また“サイパンのジャンヌ・ダルク”菅野静子の情報が入り混じり、日名子の描いた像となったのかもしれません。
この整理には、まだ情報が足りないようです。

ちなみに1944年の9月に始まったパラオのペリリューの戦いでは、『中川大佐配下の独立歩兵第346大隊長 A少佐の愛人芸者(慰安婦)がパラオの中心地のコロール島からペリリュー島にやってきて日本軍と一緒に戦い最期は機関銃を乱射アメリカ兵86人を死傷させ玉砕した』という、まさに日名子の像のままの伝説があるそうです。

もしかしたら、日名子のこの像が、その伝説をつくったのかもしれません。