2019年7月24日水曜日

昭和6年「第一回日米対抗水上競技大会」メダル


最近、以前書いた「日本選手権水上競技大会」メダルの記事にアクセスが多いなと思っていたら、どうやら『いだてん〜東京オリムピック噺〜』で、この大会の話が放送されるのですね。
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/

この記事ではこのメダルについて以下の様に書きました。
『1931(昭和6)年の「第一回日米対抗水上競技大会」。
日本人と米国の選手が交互に描かれているのですが、同じ背の高さで合わせてあるところに日本人の自負心が感じられますね。裏には飛魚が描かれてます。戦後、古橋廣之進選手が「フジヤマのトビウオ」と呼ばれたことを思い出します。』
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/06/blog-post.html

原型は、日名子実三。
実は大河ドラマってあまり見なくて、この『いだてん..」も見ていないのですが、まさか日名子は出てきていないでしょう??

2019年7月20日土曜日

畑正吉によるエンボス加工の原型

以前、畑正吉原型によるエンボス作品を紹介しました。
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2019/05/blog-post_26.html

最近、畑正吉が残した作品を整理していましたら、その中からエンボス加工の為に制作されたと見られる原型作品が見つかりました。
その作品には、畑正吉による裏書がなされています。

尚山堂 水野○○氏依頼 明治四十三、四年頃 紙浮出ノ原型ニシテ西洋写真ニヨル 正吉作』とあります。

この水野○○氏は以前紹介しましたように「尚山堂」の水野倶吉のことでしょう。
明治43年は、畑正吉が農商務省海外練習生として滞欧留学から帰った直後になりますね。
留学で畑正吉が持ち帰った写真を模刻したものかは不明です。

明治38年頃に行われた日露戦争では、それを記念する絵葉書が売れに売れ、絵葉書ブームが起きました。
このエンボスの原型も、水野倶吉の手によって絵葉書等で用いられたのかも。

学生時代の畑正吉は、東京美術学校の学費が払えないほど貧窮していて、尚山堂の依頼のお陰で支払うことができたそうです。
こういった依頼はどれくらいあったのでしょうね?
学生時代の朝倉文夫は、海外向け土産品の原型制作が忙しすぎて歩いて学校に行く時間がなく、人力車を雇って通ったとか。
折からの絵葉書ブームで、畑正吉への依頼もかなりあったのかもしれません。

2019年7月17日水曜日

性愛のロダンと新海竹太郎

私のような素人だからこそ好きに書けるわけで、学者さんの言わない歴史のifだって自由に言い放題!
というわけで、今日の「もしも...」は『ロダンの接吻が日本の彫刻史に強い影響を与えていたら...』です。
いや、ロダンは日本の彫刻史に影響を与えているだろ!と言う人もいるかと思いますが、ロダニズムを受容した当時、ロダンの性愛をテーマにした作品に言及した日本の作家というのは殆ど見当たらないのです。
萩原守衛だろうが高村光太郎だろうが、目に写ってはいるはずなのに形にしない。

たしかにその時代は、「男女七歳にして席を同じゅうせず」の時代だっただろうし、裸体像への検閲だってあったでしょう。
陽咸二の「燈下抱擁像」も展示不可になりかけたんじゃなかったなかったかしら。
http://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=10575&edaban=1

それでも、抱き合う男女、愛と性欲、そんな私たち人間のリアルを研究しようとする姿勢が、当時の日本人には見られない...

しかし!
私たち日本人が性愛をテーマに出来るモチーフがあり、それに気がついた彫刻家がいました。
それは日本近代彫刻のレジェンド、新海竹太郎です。
シバとバルバチ(シヴァとパールヴァティー)

パールヴァティーは、ヒンドゥの神シヴァの亡くなった妻サティーの生まれ変わりで、愛する妻を失って女性を受け入れまいとするシヴァの頑な心を解いた神妃です。
「山の娘」を意味するパールヴァティーが、シヴァに初々しくも愛を表現するこの姿!
新海竹太郎以外でこういった彫刻をつくれる作家はいません。

また、新海竹太郎には「歓喜天」というガネーシャの姿を描いた作品もあります。
https://www.tobunken.go.jp/materials/sinkai/28022.html

そう、性愛を否定しないインド、ヒンドゥの神々の姿を借りれば、ロダンの性愛を日本人が描く事が可能となるのです。

新海竹太郎が関わった日本美術院では、岡倉天心が明治34年ごろからインドに渡り、アジアを全域を視野に入れて活動します。
岡倉天心という愛と欲の塊が、プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーというインドの女性と恋に落ちたのは、1912(明治45)年。
この頃、天心がもう少し日本の当代彫刻に興味を持っていれば、ロダンの性愛をインドを通して表現する文化が芽生えていたかもしれません。

しかし、1913(大正2)年に天心は亡くなります。
新海竹太郎が発見した「ロダンの性愛をインドを通して表現」もその後に続く作家はありませんでした。
彫刻における性愛は、禁忌となってしまいます。

「もしも...」『ロダンの接吻が日本の彫刻史に強い影響を与えていたら...』
日本の彫刻史のみならず、日本人の恋愛観をも変えていたかもしれません。
このように...

2019年7月6日土曜日

日本帝国徽章商会 

明治後半頃の「日本帝国徽章商会」チラシです。
表には「日本帝国徽章商会」がどれだけ凄いかをドャった文章、その隣に徽章と賞牌の功用として、日本の体育の向上などに賞牌がどれだけ役に立つか、日本にとってのメダルの必要性を説いています。
そして裏には、日本帝国徽章商会のメダルを多数記載。


このチラシでは、明治10年に起業となっていますが、山田盛三郎著「徽章と徽章業の歴史」によれば、日本帝国徽章商会の創業者鈴木梅吉は、明治13年ごろに小間物屋をはじめ、明治18年ごろからメダルの受注を受けたとあります。
日本帝国徽章商会として登録したのが明治10年と言うことでしょうか?
しかし、東京千代田区にある「徽章業発祥の地」の碑文には『明治18年(1885),鈴木梅吉により 日本帝国徽章 商会が創られました。』とあります。
チラシの方が明治10年と盛っているのでしょうか?

また、チラシには当時の日本帝国徽章商会の店構えがイラストで載せてあります。
先の「徽章と徽章業の歴史」にも写真がありますが、正にその姿ですね。

「徽章と徽章業の歴史」より
 看板には「賞牌徽章金銀盃木盃 貴金属品製造所 日本帝国徽章商会」とあり、その上には「鈴木」の看板が掲げてあります。これは写真では見えない位置になっていますね。
チラシの絵を観ると、ガラスケースを多用した、和洋折衷のつくりである事がわかります。

その隣に「 UMEKICHI SUZUKI」「MEDAL MAKER」と掲げた西洋館が建っています。
「徽章と徽章業の歴史」によれば、これが建ったのは大正の初めで、「時計部」であったといいます。
チラシは明治30年ごろで、大正初めとは時期が異なりますが、こっちは「徽章と徽章業の歴史」の誤りかもしれません。

この建物、関東大震災は乗り越えたのでしょうか?
日本帝国徽章商会のあった麹町区飯田町(現飯田橋)は震災の影響が少なかったと言いますがどうだったでしょう?
日本のメダル史の遺物として現代まで残っていたらなぁと思います。(さすがに東京大空襲は乗り越えられなかったでしょうけど...)