2019年7月17日水曜日

性愛のロダンと新海竹太郎

私のような素人だからこそ好きに書けるわけで、学者さんの言わない歴史のifだって自由に言い放題!
というわけで、今日の「もしも...」は『ロダンの接吻が日本の彫刻史に強い影響を与えていたら...』です。
いや、ロダンは日本の彫刻史に影響を与えているだろ!と言う人もいるかと思いますが、ロダニズムを受容した当時、ロダンの性愛をテーマにした作品に言及した日本の作家というのは殆ど見当たらないのです。
萩原守衛だろうが高村光太郎だろうが、目に写ってはいるはずなのに形にしない。

たしかにその時代は、「男女七歳にして席を同じゅうせず」の時代だっただろうし、裸体像への検閲だってあったでしょう。
陽咸二の「燈下抱擁像」も展示不可になりかけたんじゃなかったなかったかしら。
http://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=10575&edaban=1

それでも、抱き合う男女、愛と性欲、そんな私たち人間のリアルを研究しようとする姿勢が、当時の日本人には見られない...

しかし!
私たち日本人が性愛をテーマに出来るモチーフがあり、それに気がついた彫刻家がいました。
それは日本近代彫刻のレジェンド、新海竹太郎です。
シバとバルバチ(シヴァとパールヴァティー)

パールヴァティーは、ヒンドゥの神シヴァの亡くなった妻サティーの生まれ変わりで、愛する妻を失って女性を受け入れまいとするシヴァの頑な心を解いた神妃です。
「山の娘」を意味するパールヴァティーが、シヴァに初々しくも愛を表現するこの姿!
新海竹太郎以外でこういった彫刻をつくれる作家はいません。

また、新海竹太郎には「歓喜天」というガネーシャの姿を描いた作品もあります。
https://www.tobunken.go.jp/materials/sinkai/28022.html

そう、性愛を否定しないインド、ヒンドゥの神々の姿を借りれば、ロダンの性愛を日本人が描く事が可能となるのです。

新海竹太郎が関わった日本美術院では、岡倉天心が明治34年ごろからインドに渡り、アジアを全域を視野に入れて活動します。
岡倉天心という愛と欲の塊が、プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーというインドの女性と恋に落ちたのは、1912(明治45)年。
この頃、天心がもう少し日本の当代彫刻に興味を持っていれば、ロダンの性愛をインドを通して表現する文化が芽生えていたかもしれません。

しかし、1913(大正2)年に天心は亡くなります。
新海竹太郎が発見した「ロダンの性愛をインドを通して表現」もその後に続く作家はありませんでした。
彫刻における性愛は、禁忌となってしまいます。

「もしも...」『ロダンの接吻が日本の彫刻史に強い影響を与えていたら...』
日本の彫刻史のみならず、日本人の恋愛観をも変えていたかもしれません。
このように...

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