2020年12月31日木曜日

昭和2年 6月 東京美術学校 校友会月報

 昭和2年6月に発行された東京美術学校校友会月報、第26巻第1号です。


挿絵に森大造、星三郎の卒業制作が載っています。
森大造はわかりますが、星三郎という作家については不勉強で分かりません。
堀江尚志の少女座像(大正13年)によく似た姿で、もしかしたら影響受けているのでしょうか?

こういった冊子を読んでいて面白いのは、当時を生きた人々の姿が生き生きと見えてくる事ですね。
こういうのは作品を見ていても分かりません。

例えば、この年の特待生が記載されています。
塑像部:奥田勝、中島浩、梁川剛一
木彫部:松厚正明、中野四郎

梁川剛一、中野四郎など後に名を成す彫刻家がいますね。
逆にあまり知られていない名もあるのが面白いです。

また、卒業式のスケジュールなど
『3月24日第36回卒業證書授興式を本工大講堂に於いて挙行す。
 例年の如く午前10時新卒業生式場に入り着席、
 鈴川教務主任より式に関する注意あり、
 次で職員、卒業生、来賓の着席せらるるや、正木校長の式辞に始まり、
 各科総代に卒業證書を授興。校長の告別辞、文部大臣訓辞代読、
 卒業生総代(建築科大澤健吉)答辞にて式終わる。
 職員及び新卒業生は本館玄関前にて記念の撮影をなす。』
卒業式って今とほとんど変わってないのね!

そして本年の入学についてですが、入学希望者が851人あり、入学試験の結果180人が選別入学を許可されたとあります。
彫刻選科塑像部は13名、文錫五という後に北朝鮮に渡った作家の名前があります。
彫刻家木彫部は6名、彫刻選科木彫部は4名です。

西洋画科特別学生に、朴魯弘、朴根鎬、李馬銅、李景湊、
何徳來、韓三鉉、吉鎭燮、金慶璡
朝鮮の作家が多いですが、
何徳來は台湾の人のようです。

卒業生動静には木内五郎が陸軍歩兵少尉に任命されたとあります。
https://www.wul.waseda.ac.jp/Libraries/fumi/13/13-02.html

そして、その中でも面白いのこの年の入学試験の内容が書かれている事です。
彫刻科塑像部は、
①塑像 石膏マスク模作
②写生 石膏胸像(木炭画又は鉛筆画)
彫刻科木彫部は、
①木彫又は塑像 木彫は平肉手板模作(桐)
 塑像は厚肉手板(鷲の首)模作
②写生 
石膏胸像(木炭画又は鉛筆画)

また、筆記の試験も。
建築科の試験での英語の例
2.次の文を英訳すべし
1.ロダン(Rodin)はモデルにある姿勢を強るやうなことは決してしなかつたと云うことです。

建築科の試験での数学(平仮名は全部カタカナ表記)
1.甲端より乙端に向へる汽車が3哩を走りし中機関に故障を生じ10分間停車した。
それより早さの1/3を減少したるため定刻より1時間延着したり。
もし故障が出発後2時間にして起こりしならば(停車時間等前と同様)前の場合よりも22’5分丈早く到着したるべし´甲乙両端間の距離を求む。

等々...

他には修学旅行記や弓道、乗馬、山岳スキー部の日誌。
青春ですね。

最後に教授で美術史家大村西崖の銅像建設資金募集趣意が記されています。
この年の3月に亡くなった大村西崖の銅像製作費を募集し、1周忌に構内に建設する予定のようです。
発起人には教授である朝倉文夫、北村西望、建畠大夢、そして海野清や関野聖雲の名前があります。
で、誰が大村西崖の像を制作したかと言えば...結局朝倉文夫なんですよね~~

2020年12月29日火曜日

明治四十四年 貿易製産品共進会 メダル


1911(明治44)年3月16日より60日間、神戸湊川において行われた貿易製産品共進会のメダルです。

この貿易製産品共進会では、画家北野恒富のアルフォンス・ミュシャふうポスターが使用され、洒落た洋風イメージが用いられたようです。
このメダルも同様で、神戸港をバックに女神が立つ姿が描かれています。
右手に持つのはオリーブの木でしょうか?
左手にはケーリュケイオン。
そしてメダルの外側には虹の様な不思議な模様が描かれています。
この模様は北野恒富のポスターにも用いられていることから、イメージの共有があったことが伺われます。

画家一條成美によるミュシャの影響を受けた表紙の『明星』が発売されたのは1900(明治33)年。
これ以降、多くの雑誌等のビジュアルデザインにミュシャやアールヌーボーの影響が伺えるようになります。

このメダルもまたミュシャやアールヌーボーの影響を受けていのでしょうが、アールヌーボーらしい装飾性はあまり感じないですね。
装飾は虹の様な模様ぐらいです。
どちらかと言えば、ミュシャの様なキャラクター性の強さを感じさせます。
ミュシャの日本の受容史として、後の少女漫画への影響が語られますが、このメダルの女神像もキャラクターとして描かれているのだと思います。
そのキャラクターの属性を示すためのオリーブの木とケーリュケイオンなのでしょう。

端に「R.N」とサインがあります。
ですが、これに該当する作家が思いつきません。
誰なのでしょうね?

2020年12月21日月曜日

彫刻と天皇制

天皇制とアートについて考える機会があったので、少しここに書いてみようと思います。

戦前の美術史を語る場合、その対象は絵画を中心としたものになります。
例えば所謂ファシズム美術では、戦争画が中心にあり、プロレタリア美術もまた、マヴォのような複合美術も一部にはあるせよ同様です。
「彫刻」をして美術史の中心に語られる事はありません。
そのため、戦前の「天皇制」と美術という題で話がされる場合も、その対象は絵画になります。
ですが、「彫刻」は絵画とは異なる歴史を背負っている…というよりも、作家数も少なく、関わる人間の数も限定される「彫刻」の方がより純化した日本の美術史の姿を見せているのではないか、私はそう考えています。

私は、萩原守衛を代表とする日本近代彫刻史の強い恣意性に疑問を感じています。
「天皇制」を軸に「彫刻」を語ることは、『純化した日本の美術史の姿』を示す材料になるはずです。

では、歴史のおさらいです。
明治維新によって西欧諸国と対等となるための、日本は憲法と資本主義を導入します。
伊藤博文らは憲法と資本主義の根にキリスト教があると学びます。
近代化には前近代的なキリスト教をベースとした思想社会が必要です。日本はキリスト教に代わり、前近代的な「天皇」への信仰をベースとした思想社会によって近代化を行います。

『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』がどんなものであったのか、それをわかりやすく示すエピソードが高村光雲の「矮鶏」と「楠木正成像」にあります。
「矮鶏」は光雲が37歳のころの作。この作品が明治天皇(聖上)の目に留まり、宮内省お買い上げとなります。光雲のこの作は伝統的な木彫と西洋的な観察を組み合わせた当世のコンテンポラリーアートでした。
洋装に切り替えた明治天皇は、コンテンポラリーアートをも購入するのです。
次に「楠木正成像」ですが、こちらも天皇へ献納されており、展覧の様子を高村光太郎が記しています。光雲の名誉への興奮が伝わる文書で、高太郎もまたその心を継ぎ、後の戦争詩が生まれます。

明治以前に『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』がどれだけ広まっていたのか、朱子学の影響が武士階級以外にどれほど影響を与えていたのか、議論あるところと思いますが、光雲の時代においては、『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』がある程度には広まっていたとわかります。
『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』によって生まれたのは法だけではありません。このように当時の人々の言葉や生活様式を変革し、人の心まで変えました。
なにより光雲は彫刻家です。彼の意識、美意識をも生み出したと言え、その美意識は息子の光太郎も継いでいます。
そう、私たちの美意識は、『「天皇」への信仰をベース』としています。もちろん、光雲が仏像彫刻を学んだように江戸時代から地続きの美意識ももちろんあるでしょう。しかし、これを抑えておく必要があります。

次にその美意識に絡めとられた時代についてです。
『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』を生んだ伊藤博文らにとって、この信仰はネタ、つまり虚構だという意識はあったでしょう。それが昭和初期の天皇機関説事件のころにはベタに信仰する人々が影響力を持つようになります。
「八紘一宇」または天皇を中心とした世界統一を本気で考える人があり、それを支える人がいました。その中で彫刻はファシズム美術、戦争彫刻へと進んでいきます。

戦争画は戦時のプロパガンダとして用いられ、国内に運ばれ多くの動員を呼ぶ展覧会が開かれます。持ち運びが容易ではない彫刻は写真パネルの展示がなされるくらいしかありません。そこで彫刻家が行ったのは、一つは現地へ行って彫刻を作ることでした。
造営彫塑人会や軍需生産美術推進隊などの作家の合同制作によるモニュメントが造られます。この一つの作品を合同で作るという個人主義的を超克しようとする思想は、プロレタリア美術へと受け継がれ、戦後へ影響を与えます。

もう一つ、彫刻家が行った仕事は、市井の中で彫刻を生かす事でした。
関東大震災後の廃墟が立ち並ぶ中でバラック装飾社の若者たちはバラックにペイントし、アートの社会化を目指します。
それに参加した日名子実三らは彫刻団体「構造社」を立ち上げ「彫刻の実際化」を標榜し、メダルや雑貨等へ彫刻技術を用いり、作品として仕上げようと試みます。
そこでは、大量生産の肯定があり、後のポップアートにみられるモチーフの反復などが見られます。

これら彫刻家の仕事は、当時の空気の中で行われた戦争プロパガンダです。
しかし、現在につながる豊かな美の歴史でもあります。
戦争画が、その一時期の歴史の迷いのように語られることがありますが、彫刻を含め全体を見れば、やはり私たちの歴史とのつながりを理解することができます。
ただ漫画やアニメ、デザインなどに比べればこの地続きの美術の歴史の検証はなされていないのではと思います。

欧米のコンテンポラリーアートが結局キリスト教から抜け出せない、または抜け出す必要を感じていないローカルなものであるように、日本の美術もまた天皇制から抜け出せない、または抜け出す必要を感じていないローカルなものです。
しかも、私たちの美意識が天皇制によって生まれたのにも関わらず、まるでそこから自立できたかのように振舞っている現代の日本の美術。その結果が今なのだと思います。
もしかしたら、光雲の作品が宮内省に買われたように、日本の
コンテンポラリーアートが買われる状況が生まれてやっと、私たちの歴史が地続きになり、そこからの自立の道もできるのかもしれません。

というわけで、陛下には村上隆の彫刻を買ってもらいたいのです。

2020年12月16日水曜日

林教授在職二十五年記念祝賀会 絵葉書







東京帝国大学医学部薬物学教室の教授であった林春雄の銅像や肖像画を写した絵葉書です。

彼の在職二十五周年を記念し制作された肖像郡で、作家は建畠大夢、藤島武二と和田三造。
この顔ぶれから、東京美術学校への依頼だったと思います。
現在、この銅像は東京大学に保存されているようです。
サイトでは、作者不詳となっていましたが、建畠大夢の作だったんですね。

面白いのは、絵葉書に祝賀会の予定表とこの作品依頼の収支が付随していることです。

収入:10076円
支出:10076円

内訳
 目録    :3000円
 油絵肖像  :3000円
 銅像    :2000円
 記念品   :500円
 絵端(葉)書:250円
 印刷費   :250円
 郵便    :250円
 広告費   :400円
 宴会補助費 :300円
 雑費    :176円

(肖像画が2種あるのですが、この内訳はどうなっているのでしょう?)

建畠大夢の銅像製作費は2000円。
当時の大卒初任給が75円程、平均年収が700円程でしたので、かなり高額な物であったことがわかります。
鋳造費を引いて、いくら作家に入ったのでしょう。
半分くらいかな?
絵葉書三枚もフルカラーなこともあって結構な金額。
さすが帝国大学医学部!!

2020年11月13日金曜日

鬼滅の刃と桃太郎メダル


 以前も紹介しました日名子実三による「国民精神作興体育大会参加章」メダルです。
なぜ、今回再びこの桃太郎のメダルを紹介するかと言えば、「鬼滅の刃」人気に便乗するため!


劇場版「無限列車編」は観に行きました?
私も行きました。
そして、感動とともに深く考えさせられました。

「鬼滅の刃」の物語は強い。ストーリだけでなく劇中の台詞も強い。
その強さは微塵も揺るがない炭治郎らの「正しさ」によります。

私の様なおっさんは、ガンダムでもジブリでも、エヴァでも、そんなアニメを観て育ち「正しさ」を疑うこと、それがサブカルチャーの在り方だと刷り込まれてきました。
私のブログもまた、日本美術の「正しさ」への懐疑が根底にあります。

そこで「鬼滅の刃」ですよ。
もちろん鬼にも事情はあり、それを描いてはいますが、だからと言って炭治郎が「正しさ」を疑い、揺れることはありません。
そういう「正しさ」を求める人が大勢いる。
きっとこれが、コロナ以降の世界のカルチャーなのかもしれないと思うわけです。

閉塞感から「正しさ」を求める時代…
かつてそんな時代がありました。
その時代に描かれた鬼を倒す物語。
それが昭和の戦時下での桃太郎です。


プロパガンダとしての桃太郎は、この時代の「正しさ」の象徴であり、戦争の「正しさ」を体現するキャラクターでした。
上記の桃太郎が描かれた「国民精神作興体育大会参加章」は昭和13年に行われた大会です。
この年は国家総動員法が施行されます。
国民が自身の「正しさ」に酔った時代のその心に桃太郎が重なり表し、体育大会の参加者に手渡されたわけです。

桃太郎の物語は敗戦とともに「昔話」となります。
そして、サブカルチャーは戦時の文化を継承しつつ、複雑化していきます。
令和の時代に生まれ落ちた鬼退治の物語「鬼滅の刃」はどこへ向かうのか気にかかるところです。

2020年9月14日月曜日

式場隆三郎:脳室反射鏡

現在、新潟市美術館では『式場隆三郎:脳室反射鏡』と題し、式場隆三郎を紹介し、掘り下げる展覧会が行われています。
http://www.ncam.jp/exhibition/5602/
十年来の式場ファンの私としては、本当に感無量!
また、式場隆三郎という人物の持つ問題が、今日性を持つという私の思いを再確認できました。

式場問題の今日性とは、例えば大塚英志氏が『「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち』で書かれてことにも通じます。
大塚英志氏は、昨今の「新しい生活」が大衆化していく様が、戦時下で「ていねいな暮らし」というプロパガンダが大衆化していく様子と同様で、その気持ち悪さを語られています。
私たちのまわりの、それほど気にもとめないこと、小さな生活を彩るもの、それらが実際は国策的で暴力を伴う大きなプロパガンダで出来ているのだという事です。

では、式場隆三郎はどういったプロパガンダに加担していたのか。
私はそれが『アート』の大衆化であったと考えています。
私たちがアートと言われ考えるもの、アーティストの姿として描くもの。
その背後に式場隆三郎があるのではと考えています。

ゴッホのようにただ一つの美をもとめ、苦悩し死んでいく姿。
山下清のように「野に咲く花の様に」「生きてゆけ」る姿。
これらに私たちは感動し、アートに纏わる物に動員されます。
しかし、私たちは作品そのものに動員されたわけではなく、作品が背負う物語に動員されています。
その物語を私たちの耳元でずっと囁き続けるのが、式場隆三郎です。

確かに白樺や民芸運動にも、新しい「美」を啓蒙する思いはあったでしょう。
それを民衆に向かって、ケバケバしく、大衆紙的な切り口で浸透させていったのが式場です。
もちろん彼一人の力ではありませんが、そこに向かう情熱の異常性から、どうしても式場隆三郎が悪目立ちするのですよね。

悪目立ちと言えば、柳宗悦の民芸運動では、ハイカルチャーとして「民芸」があり、「民衆」に対して差別まではいかないものの、区別があり、それに敏感で、「民衆」に自身が入り込むことはありません。
しかし、式場はロウな「民衆」にたいして「民芸」を説いてしまう。
そこに生まれるのは、「美」を知る者と知らない者といった「民衆」の分断です。
「民衆」の分断とは、同じ民衆の中で、私(達)とそれ以外とで分けてしまうことです。
それは、例えば芸能人を「薬を使うような人間は駄目な奴だ」と蔑んで楽しむ大衆紙的な姿であり、例えば美術館へ行く層とそうでない層とを分断させ、焦燥させて、さらに互いに憎み合わせる姿です。
そう、あの「表現の不自由展」の裏にも式場隆三郎がいます。

猛毒である彼の呪縛は「それほど気にもとめないこと、小さな生活を彩るもの」だけに静かに広く浸透していることに気がつきにくいかもしれません。
ですが、耳元で囁く式場の声が聞こえる人が増えれば、もう少しアートの景色も鮮やかになるのではないかと思います。

2020年8月26日水曜日

昭和16年 セメント美術工作研究会発行「セメント美術」





国家総動員法の翌年、昭和14年に「物価統制実施要綱」が制定。彫刻家に必要な物品に対しても統制がなされます。
そこで、銅像に必要な銅やその他の金属に代わり、セメントを使用した彫刻作品が推奨され、この研究の為にセメント美術工作研究会が発足となります。

冊子「セメント美術」は、昭和16年4月15~17日の間に東京帝国鉄道協会で開催された「日本ポルトランドセメント業技術会第26回例会」に於いて、セメント美術工作研究会理事の森田亀之助、矢崎好幸の研究講演を基礎に、セメント美術についてまとめられた内容だと言うことです。
右上の像が何だったか思い出せない!



 
森田亀之助は、東京美術学校の教授職の後、昭和21年に創設された金沢美術工芸専門学校の校長を勤めます。また美術史家として「美術新報」を含め多くの雑誌に寄稿、執筆を行っています。
矢崎好幸は、東京美術学校のセメント美術教室主任教官だった人物のようです。
当時の新しく、時局に沿った素材「セメント」の第一人者がこの方々なのですね。

この冊子には、
『ことに最近に於ける工藝界も、事変という大きな動揺によって、かつての貴族・個性・稀有・高貴・異常・自由という特殊の世界から、国民・実用・多量・廉価・通常・規格といった国家目的線変換し、著しくもモニュメンタルのものとなって、その合理化・機能化・経済化が強調されつつある』
と書かれています。
敗戦間近の日本の有様を見ると忘れがちなのですが、あの戦争は合理的で機能的で科学的な生活を求めた結果なんですよね。
はてさて、昨今の「新しい生活様式」はどちらなのでしょうね?

2020年8月23日日曜日

第二回プロレタリア美術大展覧会 絵葉書

本日は絵画の絵葉書です。
 第二回プロレタリア美術大展覧会出品
岡本唐貴作「無題」
吉原義彦作「ひきあげろ!」
の絵葉書です。

第二回プロレタリア美術大展覧会は1929(昭和4)年に行われました。
その時、販売された絵葉書だと思われます。
岡本唐貴の「無題」は「争議会団の工場襲撃」として晩年に再制作されているようですね。
当時は作品名を付けられなかったのでしょう。けれど見る人が見ればわかるといった作品だったのでしょうね。

300号というサイズ、構成的な色彩と絵画として見れば岡本唐貴の作品の方が優れているのかもしれませんが、絵画の持つ熱量は暑苦しい肉の壁が迫ってくる吉原義彦の「ひきあげろ!」に感じます。

正面に子供を配置したわけは何でしょう?
プロレタリアートのプロパガンダを信じる、殉教者のような純粋な笑顔のこの子が正直怖いです...
プロパガンダの洗礼を受けた子供たち、ヒトラー・ユーゲント、毛沢東の紅衛兵、そして日本の軍国少年少女にオウムチルドレン、皆同じように純粋な笑顔だったのでしょう。
この純粋な信仰者の狂気を、当時のこの作家も持っていたのかもしれません。

吉原義彦は後に従軍画家として活動します。
それは、この時代に作家として生活し食っていくためでもあったかもしれませんが、純粋な信仰者の狂気が「プロレタリアート」から「日本」に移行しただけなのではないかと考えてしまいます。

2020年8月3日月曜日

高村光雲宛の絵葉書の送り主が桜岡三四郎と判明!

先日UPした高村光雲宛の絵葉書ですが、送り主は桜岡三四郎だと教えていただきました!
桜岡三四郎は明治3年生まれの鋳金家です。
東京美術学校の鋳金科の主任、後に教授となります。
東日本大震災により崩壊してしまった仙台、青葉城跡に建つ昭忠碑の上部に取り付けられた金鵄像は沼田一雅が設計し、桜岡三四郎、津田信夫らが鋳金した代表作です。

その桜岡三四郎は、明治36(1903)年にアメリカに留学しています。
この絵葉書の消印の日付と同じですね。
桜岡三四郎は、高村光雲に無事アメリカに着いたことを伝えたかったのでしょう。

桜岡三四郎がアメリカの行く5年前の明治31(1898)年には、岡倉天心が東京美術学校を辞職することとなる美術学校騒動が起きています。
当時、美術学校助教授だった桜岡三四郎は、天心に味方して一緒に辞職。
対して高村光雲は美術学校に残ることとなります。
袂を分けたように見える二人ですが、しかし、この絵葉書を見てもわだかまりは感じませんね。
その後の桜岡三四郎が美術院と東京美術学校の両方に籍を持ち、架け橋となって働いたことを見ても、桜岡三四郎が光雲らに対して思うところは無かったのだろうと想像します。

2020年7月24日金曜日

1903年 米国から高村光雲あての絵葉書




1903(明治36)年の3月29日にニューヨークから高村光雲宛てに送られた絵葉書です。
達筆すぎてよく読めませんが、送り主はシアトル、セントポール(ミネソタ)、シカゴへと渡ったようです。

シカゴでは1893(明治26)年に行われたシカゴ万博跡地があり、日本の鳳凰殿がそこに残って建っていました。
葉書の主も立ち寄ったようですね。
鳳凰殿には高村光雲による欄間が用いられており、その報告だったのでしょう。

葉書には「銅像の沢山なる」云々とありますが、本当に読めない!
何より送り主の「松岡(?)」なる人物は誰でしょう?
高村光太郎がアメリカに渡る3年前に光雲に葉書を送るような人物...

松岡美術館の創始者、松岡清次郎かとも思いましたが、彼じゃ若いよね。
まさか、松岡洋右じゃないだろう。彼の渡米は1893(明治26)年。
あぁぁわからない!

2020年7月4日土曜日

仏教と彫刻

今回のお題は「仏教と彫刻」です。

明治以前、この国の「彫刻」的なモノのとして仏像がありました。
維新後に西洋のsculptureが輸入された結果、例えば高村光雲は自身の作品から漂う仏臭さから逃れようと試みます。
しかし、その後のsculptureを教育として受けてきた若い世代は、新たにsculptureとして仏教的なモチーフの作品を生み出していきます。
昭和初期の帝展などではそういった作品を多々見る事ができます。





一方、明治初めには廃仏毀釈があり、寺院では仏像が人々の手で破壊されます。
それを憂えたフェノロサや岡倉天心らが仏像に新たなsculptureとしての価値を見出します。
それは美術館に仏像を並べることを可能にし、現在でも私たちは仏像を信仰から切り離し、「仏像」≒「仏教」としてこれらを見ています。

彫刻家達の仏教的なモチーフの作品もまた「仏像(彫刻家達の作品)」≒「仏教」です。
作家それぞれに信心があるのかもしれませんが、それらの作品は「ART」としての価値観、または信仰で覆われたものだからです。

近代が「仏像」≒「仏教」を生んだ...とそういった話で終わればよいのでしょが、実はこの話はちょっとめんどくさい。
つまり、元来仏教にとって、「仏像」≒「仏教」であるからです。
小乗仏教、つまりお釈迦様の時代に仏教はありません。
大乗仏教、日本まで流れ着いて変形した大乗仏教にとって仏像とは、文化の象徴であり、極楽を観想したり、信仰心を集中させる道具でしかありません。
大乗仏教の空観にとって「仏に逢うては仏を殺せ」であり、仏様自体あっても無くても良い存在。
いわんや仏像など必要あろうか。
その為、廃仏毀釈では、仏像が仏教徒にとってあっても無くても良いからこそ進んで破壊したとも言われます。

しかし、さらにさらに面倒なのは、仏教にとって仏像がそういった存在だからこそ「仏像」≒「仏教」を受け入れているわけで、よって、「彫刻家達の仏教的なモチーフ」や「美術館に並べられた仏像」をも仏教として囲いこんでしまいます。
京都へ行って仏像を見て回る観光をも、興福寺の阿修羅像を好きだという仏女らも、仏教は「ありがたいことです」と囲い込んでしまいます。

ではいったい、「彫刻家達の仏教的なモチーフ」とはなんなのか?
「美術館に並べられた仏像」はなんなのか?
これらの問題を解決することなく来たことで、北村西望の長崎の平和祈念像のような...まるで仏教のような...グロテスクな作品が生まれるわけです。

しかし、仏教の良いところは「お釈迦様がこう言った」と言えばどんなものでもお経になり、そのお経それぞれに宗派を生み出せること。
つまり「彫刻家達の仏教的なモチーフ」や「美術館に並べられた仏像」は新たな宗派として考える事だってできるのではないか?
北村西望のように仏教的なモチーフをつくる彫刻家や、美術館に仏像を並べたがる学芸員ら、そして阿修羅像を好きだという仏女はその檀家なのです。
仏教の近代化は、こうした新たな宗派をつくり、現在も尚、無自覚に信徒を増やしているわけです。

2020年6月24日水曜日

日名子実三作 大友宗麟公銅像除幕式記念 メダル




昭和12年に大分新聞社主催による大友宗麟公銅像の除幕式記念が行われました。
銅像の作者は日名子実三。
このメダルはその除幕式を記念して制作されたものです。

建立地は大分県大分市勢家町 神宮寺浦公園。
銅像の台座には『銅像を建設し以て遺徳を顕彰すると共に永く郷党発奮の源泉たらしめん事を期す』と刻まれています。
しかし、この大友宗麟公銅像は大東亜戦争中の金属回収令によって台座のみとなります。
ただ現在は、彫刻家長谷秀雄によって再建され同地で拝むことができるようです。

戦時中は多くの銅像が回収されました。
戦後も同様に戦争に関連した銅像は取り壊され捨てられます。
そして現代もまた銅像はうち捨てられています。




以前も「銅像受難の現代」と題して書きました。
銅像という人の形を模したモニュメントは、常に破壊され、捨てられる運命なのでしょうか?

確かに諸行は無常であり、常に『遺徳を顕彰する』ことも『共に永く郷党発奮の源泉たらしめん事』も難しいのでしょう。
もしかしたら銅像とは壊されるまでが一つのセット。
失う事も含めて「銅像建立」と言うのではないか。
そんなことを思います。

建立者のどんな想いも、時代の中で解釈が変わり、新たな想いの対象として破壊される。
または良い意味でも悪い意味でも忘れ去れ、不要となる。
それが「銅像」なのではないか。
鳥の糞だらけで誰もが誰かわからない銅像。
人身御供のように倒され、燃やされ、引きずり回され、挙句に海に投げ捨てられる銅像。
人を模した銅像は、建立時と同じように捨てられる姿も一つの祭事なのです。
今でも想いを背負った人形を川に流す祭事がありますが、銅像もまたそういった呪をもったモノなのではないか。
そして、そこに銅像が銅像たる所以、役割があるのではないかと思うのです。

ですから、どんどん世にある銅像を倒してしまえば良いのでしょう。
台座さえも失って、そこに何があったか忘れて行けば良いのでしょう。
猿の惑星の自由の女神像のように、まるで山や川がただそこにあるように。
私のような好事家がちょっと思い出す...それくらいでちょうど良いのでは。

2020年6月19日金曜日

大正14年発行 彫刻雑誌「ハニベ」創刊号 その2

この雑誌を読みたいとのご希望がありましたので「ハニベ」創刊号の前頁を載せます。
画像で申し訳ないのです。写真も写りが悪くてすみません。
うまく曲げられなかった頁は別撮りしています。
読めますでしょうか??