2019年3月17日日曜日

アサヒ徽章カタログより

戦前のアサヒ徽章製作所のカタログより、末ページの記事です。


図案部の新進気鋭意匠には、彫刻家ではなく洋画家の倉垣辰夫が選ばれています。
倉垣辰夫は、大正15年東京美術学校西洋画科卒業、昭和5年第11回帝展に「曲馬団」が初入選して以来、官展に作品を発表。馬の洋画家として知られたと言います。

当時のメダル業界では、「図案家」「彫刻家」「錺師」がメダル制作に関わる技術者でした。
このアサヒの記事からは、その中でも、「図案家」にある種の権威がある、または「図案家」に「芸術」としての権威が必要とされていると言うことがわかります。

つまり、メダル業界は、芸術としてのメダルが商業化されたのではなく、職人業界が「芸術」の威を借りようとしてたのですね。
その為、彫刻家によるメダル制作と、メダル業界とは、同じ時代を進みながら、同じ技術で作製しながら、同じ市場で争いながらも、根本で交わらなかったのだろうと思います。
それはメダル業界を描いた山田盛三郎(著)「徽章と徽章業の歴史」を読んでもそう思いました。

振り返って現代を見れば、「芸術」の権威は低くなり、新進気鋭(少し名の出た)芸術家がメダルを制作したところで誰が目に留めるでしょう。
草間弥生のメダルとか、奈良美智のメダルとかが、次の東京オリンピックの記念目メダルとして出るかもしれませんが、そのレベルの作家でやっと威光があるといったところでしょうか?
どちらかと言えば、職人がその技術でもってメダルを制作したほうが、消費者の嗜好に合うのかもしれません。
時代は変わりましたね。

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