今までに何度か紹介してきました、この日名子の「サイパン」。
彼の最後の発表作であり、謎の多い作品です。
まず、この作品は女性なのか、男性なのか?
女性であったとして兵隊なのか?
「サイパン」とは、日本軍が全滅した「サイパンの戦い」を描いたものなのか?
現状で分かっているのは、この作品が1944(昭和19)年の10月に行われた第一回軍事援護美術展に出品されているということだけです。
この謎を解くために、まずは当時「サイパンの戦い」が一般的にどのようにイメージされていたかを知らなくてはなりません。そして、特にサイパンにいた女性たちががどのように語られたのか知りたい。
そのため、フェミニストで女性史研究家の加納実紀代の著書『「銃後史」をあるく』より『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』をもとにまとめてみたいと思います。
まず、当時の日本国民がサイパン陥落を知ったのは、南雲中将が自決し、全軍が玉砕突撃した1944年の7月7日から10日後の7月18日。
この日のラジオによって大本営発表が伝えられます。
そして一ヵ月後の8月19日。朝日新聞の一面トップに『壮絶・サイパン同胞の最後/岩上、大日章旗の前/従容、婦女子も自決/世界驚かす愛国の精華』の見出しが掲げられます。これは、アメリカのタイムの記者ロバート・シャーロッドによるサイパンでの民間人死者にたいする記事を、大本営発表の内容に合わせ、殉死として変容した内容でした。
この記事では、『悠然、黒髪を櫛けづる』の小見出しで『(米軍の)海兵は女達が岩の上に悠然と立って長い髪を櫛けづるのを見てびっくりした』『息を殺してみつめているとやがて日本の女達は互いに手を取りあって静に水中にはいって行った』と入水自殺の情景を語っています。
21日には報知新聞でも『サイパン同胞かく自決せり 悲壮絶す!従軍記者の筆に偲ぶ実相』とタイムの記者による記事を取り上げ、『兵士自決の模範示す/婦女は黒髪梳って死出の化粧』とします。
さらに8月23日の朝日新聞では、高村光太郎や作家林芙美子、歌人中河幹子にこの殉死について語らせ、高村光太郎はその女性を『古代の穢れなき心」と評します。
そして、その1ヵ月強後の10月4日、第一回軍事援護美術展があり日名子の「サイパン」が発表されるわけです。
この「サイパン」が「サイパンの戦い」を示していることは間違いないでしょう。
ただし、サイパンの戦いで女性兵士がいたのかどうかは、『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』には書かれていませんでした。
しかし、前述のとタイムの記者ロバート・シャーロッドが1945年に出版した「On to Westward: The Battles of Saipan and Iwo Jima」では、『サイパンの在留邦人女性がアメリカ軍部隊に向け小銃を乱射し、最後に足を撃ち抜かれ野戦病院に収容された話が掲載されている』そうです。
Wiki
また、サイパンの戦いで自決を試み重傷を負うもアメリカ軍に救助された従軍看護婦の菅野静子が“サイパンのジャンヌ・ダルク”と1944年7月25日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで報道されたのだそうだ。
ただし、これらの情報を当時の日本人が知りえたのかはわかりません。
在留邦人女性と従軍看護婦...そのどちらも日名子の像とは異なります。
この像は、腰に弾薬盒を下げ、銃を立てかけながら、長い髪を梳かす姿です。
もしかしたら、「黒髪を櫛けづる」亡くなった女性と、米兵に乱射した在留邦人女性、また“サイパンのジャンヌ・ダルク”菅野静子の情報が入り混じり、日名子の描いた像となったのかもしれません。
この整理には、まだ情報が足りないようです。
ちなみに1944年の9月に始まったパラオのペリリューの戦いでは、『中川大佐配下の独立歩兵第346大隊長 A少佐の愛人芸者(慰安婦)がパラオの中心地のコロール島からペリリュー島にやってきて日本軍と一緒に戦い最期は機関銃を乱射アメリカ兵86人を死傷させ玉砕した』という、まさに日名子の像のままの伝説があるそうです。
もしかしたら、日名子のこの像が、その伝説をつくったのかもしれません。
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