2019年6月2日日曜日

第五回帝展 山崎朝雲 作 頭山翁 絵葉書

山崎朝雲は、慶応3年生まれ。
明治29年に高村光雲に師事します。
明治34年に、福岡市東公園に「亀山上皇」銅像建設。
そして、平櫛田中・米原雲海らと日本彫刻会を結成...
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8812.html

当時の主要な彫刻家を年齢別に並べます。
高村光雲(1852生れ)-山崎朝雲(1867)新海竹太郎(1868)米原雲海(1869)-平櫛田中(1872)-朝倉文夫・高村光太郎(1883)

山崎朝雲は、光雲と平櫛田中との間の世代になります。新海竹太郎や米原雲海と同期ですね。「彫刻」という概念が日本に渡り、朝倉文夫や高村光太郎のように血肉化する直前の作家だと言えるでしょう。
その中で新海竹太郎ほど西洋よりにならず、「日本」にこだわったのが山崎朝雲です。
つまり「仏師」臭さが抜けないことにこだわり続けた作家...それが山崎朝雲だと思うのです。

山崎朝雲は、先の日本彫刻会の会長であった岡倉天心の影響を強く受け、日本木彫の近代化を目指します。とはいえ、岡倉天心の唱えた「Asia is one.」は日本を超えてアジア全体を視野に入れたものでした。天心の理想の中では、「日本」にこだわっていてたわけではありません。
しかし、その天心の「アジア主義」は、戦時下に於いて「日本(皇室)を中心としたアジア」に変わります。
その二つの「アジア主義」を橋渡しする思想を持ち、当時の日本に大きな影響を持っていたのが頭山翁、つまり右翼の巨頭「頭山満」と玄洋社でした。

頭山満は、日本の政治と戦争の裏側で暗躍すると同時に、朝鮮の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行います。
それは、岡倉天心の空想・理想を現実的な政治運動にしたとも言えるでしょう。

そんな「頭山満」の像を制作したのが山崎朝雲でした。
1924(大正13)年の第五回帝展に山崎朝雲作「頭山翁」は出品されます。
この年の11月には、頭山満に会った孫文が、神戸で「大アジア主義講演」を行い、「日本は西洋覇道の鷹犬になるのか。東洋王道の干城になるのか」と述べ、アジアの仁義道徳を、世界秩序の基本にすべきであると主張します。
こうした激動の時代の中で、山崎朝雲は、岡倉天心の理想を現実化する人物として「頭山翁」を制作したのだと思います。

ちなみに、千葉県市川市の法華経寺にある「頭山満」銅像は、この山崎朝雲の立像を胸像にしたものに見えるのですが、どうでしょう??https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/e6/15a654e1a4a369ca718e9bc65a5251a4.jpg

重い話が続いたので、私の好きな山崎朝雲の作品「同級生の吊辞」
吊辞の「吊」は「弔う(とむらう)」の意味です。
つまり「弔辞(ちょうじ)」、死者をとむらう言葉を読む女学生の図なんですね...
可愛い作品なのだけどね...
結局重い話で終ります。

0 件のコメント:

コメントを投稿