2022年1月24日月曜日

新潟県立近代美術館 講座「羽下修三(大化)とその時代」


新潟県立近代美術館で行われました、講座「羽下修三(大化)とその時代」を受講してきました。
https://kinbi.pref.niigata.lg.jp/tenran/collection-ten/collection-2021-4/

羽下修三は新潟生まれの作家で、官展を中心に活躍しました。私のブログでも数度紹介してます。こちら
また、新潟県立近代美術館のコレクション展では、羽下修三の木彫3点が展示されています。中でも1940年の作、『二千六百年を舞う』が見られるのは嬉しい!

講座「羽下修三(大化)とその時代」では、羽下修三の生涯を追って説明がなされました。
その中で、羽下修三の作品の特徴として、①西洋的写実と東洋伝統的な様式美の融合、②風俗、を示されていました。
②の風俗は、新海竹太郎の「浮世彫刻」からの伝統で、院展にはなく、官展で発展してきた主題です。
①も、東洋をモチーフとした写実的な作品とすれば、その初めはやはり新海竹太郎なのでしょうか?
そして、その東洋をモチーフとした写実に様式美を加えたのは、羽下修三の師匠、関野聖雲なのか?ここはもう少し、調べてみます。
ただ、「①西洋的写実と東洋伝統的な様式美の融合」は、そういった師匠筋の写実を仏像に近づけるといった試み以外に、例えばロダン以降のメストロウィッチのモニュメント志向や、明治後期に流行ったアールヌーボーの発展でもあったのではと思いました。
また、このスタイルは羽下修三のみが行っていたわけではなく、当時の官展系の木彫作家に多く見られます。佐々木大樹や長谷川栄作等の昭和初期に活躍した、中堅どころの作家ですね。

......このスタイルに何かわかりやすい名前を付けられないものでしょうか?
というのも、戦後になるとほとんど試みられなくなっているからです。
戦前の古いスタイルとして、評価もなく忘れられています。
このテーマは結構重要だと思うので、またまとめてみますね。

もしかしたら、このスタイルが廃れた原因の一つに、昭和19年の東京美術学校改組があったのかもしれません。
この時、助教授だった羽下修三も解雇され新潟に戻ってきます。
代わりに院展系の平櫛田中や石井鶴三らが教えることとなり、その結果、先のスタイルは否定されることになったのではないかと想像します。

話は変わり、新潟県立近代美術館のコレクション展では「ドイツ表現主義 ―光と闇の交錯」として、エルンスト・バルラッハらの彫刻や版画が一室に展示されてました。
ここら辺は私の大好物ですので、たしかにドイツ表現主義作品として一級品ではないのかもしれませんが、こうまとめられると楽しいですね~
すっと観ていたかった!



 

2022年1月18日火曜日

都賀田勇馬著 銭屋五兵衛銅像建設秘話




昭和8年11月16日、金沢市金石において都賀田勇馬作「銭屋五兵衛像」の除幕式が行われました。
この冊子は、その当時の状況を戦後になってまとめたもののようです。
この銭屋五兵衛像は、戦前の金属類回収令で供出され、陶製に変えられます。
昭和47年、戦後となって再び銅製に再現されます。発行日等の記述はありませんが、これに合わせてまとめられた冊子と思われます。

この冊子を読んで興味深かった点は、まずこの像の原型に対し、当時からロダンのバルザックとの比較がなされていた事です。銭屋五兵衛像の場合は、ガウンではなく防水合羽を着ているわけですが。

そして、都賀田勇馬は頼まれてこの像を製作したのではなく、自分で銅像建立を企画立案し、事業として資金を集めることまでしていることです。
都賀田勇馬は金沢ゆかりの名士を訪問し、銅像建立の賛同と資金を得るために活動します。
明大の野球部員を金沢に呼び、寄付のための試合を行ってまでしています。(これは失敗に終わったと都賀田勇馬は書いてますが)
クリスト&ジャンヌ=クロードのように、プロジェクトを含めての作家活動なんですよね。
当時も居ただろう芸術至上主義者からしたら、異端だったのではないでしょうか?
さすが、初代ハニベ巌窟院主。

2022年1月12日水曜日

良寛像 補足

前回の記事で良寛像について書きました。
ところで今現在、国内にモニュメントとして建つ良寛像ってどれだけあるのでしょう?

とりあえず、新潟です。
①「良寛さん遊ぼ」中央区西大畑町5191 西大畑公園
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1510310-4111.html
②「新潟の良寛」新潟市中央区古町通6-968-1
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1510310-0311.html
③「天上大風」新潟市西区五十嵐2の町8050新潟大学教育学部構内
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1510710-1011.html
④「良寛坐像」新潟市中央区万代5-6-1 宮浦中学校 校庭
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1510310-2011.html
⑤「親交をあたためる 有願さんと良寛さん」新潟県南区新飯田1136近傍 円通庵
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1510610-1311.html
⑥「良寛禅師像」新潟県燕市国上1407 (真言宗豊山派)雲高山国上寺境内
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1521320-1121.html
⑦「良寛禅師像」〒955-0804 新潟県三条市如法寺404海蔵院境内
⑧「良寛禅師像」新潟県三条市元町1−6三条市立図書館
⑨新潟県燕市国上5866−1 道の駅 国上
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/nagaoka_kikaku/1356812241195.html
⑩「良寛さん」茂木弘次作 新潟県燕市国上 国上健康の森公園
⑪「良寛さま」
茂木弘次作 新潟県燕市上諏訪9−9 分水良寛史料館
https://tsubame-kankou.jp/seeing/bunsuiryokan/
⑫「良寛さんと毬」
茂木弘次作 新潟県燕市国上1405−15 国上山良寛の里
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/nagaoka_kikaku/1356812240778.html
滝川美一作 新潟県長岡市島崎4709 隆泉寺
https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/jinjya/ryusenji.html
⑭「良寛と貞心尼の対面坐像」その他、新潟県長岡市島崎3938 良寛の里美術館
https://niigata-kankou.or.jp/spot/5831
「良寬と子供」新潟県長岡市小島谷3545−1 長岡市立和島小学校
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1520231-9012.html
⑯新潟県三島郡出雲崎町石井町57 良寛堂
https://niigata-kankou.or.jp/spot/7529
 新潟県三島郡出雲崎町石井町 良寛と夕日の丘公園
https://niigata-kankou.or.jp/spot/7523
⑱「良寛さま」新潟県三島郡出雲崎町住吉町551 浄厳寺・出雲崎保育園前
https://ryoukan.anjintei.jp/r-1540513-3010.html
新潟県三島郡出雲崎町尼瀬132良寬逸話出雲崎油絵館
http://www.sone0727.server-shared.com/

まだまだありそうですが、しんどいので止めます...

この量を見ると、一昔前ならどこにでもあった二宮金次郎像みたいですね。
二宮金次郎は、勤労、勤勉という
近代資本主義イデオロギーの姿を描いたもので、それは、国家による上から与えられたイデオロギーですね。

しかし、良寛イデオロギーは、それに対するアンチであって、反体制なんですよね。面白いです。

良寛像の多い、新潟市、三条、燕は新潟県第2区、それと長岡等の新潟県第5区あたりは、反体制気質が強いのでしょうか?
けど、三条、長岡は田中角栄の選挙区でもあるし、どうなんでしょうね?

2022年1月3日月曜日

平櫛田中作「良寛来」ネガ

 東京芸大所蔵の平櫛田中作「良寛来」の写真ネガです。
http://jmapps.ne.jp/geidai/det.html?data_id=7156
いつ撮られた写真なのかわかりませんが、貸出前の記録でしょうか?


平櫛田中の「良寛来」は昭和5年の第2回聖徳太子奉賛美術展出品作です。
良寛がどこかへ訪れる姿を描いたもののようですね。
平櫛田中はこの作品以外にもいくつか良寛の姿を描いています。
https://twitter.com/denchu_bot/status/893970163057401856

平櫛田中だけでなく、多くの彫刻家が良寛の姿を彫っています。
橋本平八 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/242490
中野五一 https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/210258

戦前の彫刻家の、良寛を描こうとするモチベーションは何だろう?
良寛への想いの在り方が現在とは異なるのではないか、彫刻家にとって特に強い意味があったのではと考えています。

良寛を高く評価し、それを広報した人物として、夏目漱石が上げられると思います。
彼の「則天去私」を体現する姿として、良寛を評価しました。
詩人で「大愚良寛」を著した相馬御風や、書家の会津八一も、良寛を世に広めた人物でしょう。
また、北川フラムの父親の北川省一もまた、良寛研究を行います。
こういった人の手で「良寛」のイメージが作られていったのですね。

先に漱石の「則天去私」を体現する姿としての良寛と書きましたが、まさに良寛のイメージは無垢、無私です。
仏教では、本来無垢である心に塵が溜まり、心を曇らせていると考えます。
その塵を払うのが修行であり、本来の無垢の姿こそが仏です。
私は「彫刻家にとって特に強い意味」とは、ここにあるのではないかと考えます。
木を彫り、像を立てていきながら、本来の姿を探していくこと、そうして生まれた作品とその思想が「無垢」を良しとし、無垢である良寛と結びついたのではないでしょうか。

2021年12月27日月曜日

朝倉文夫作「報知賞杯 第三回互選和歌人選部会」メダル

やっと手に入れました!
令和3年、今年最後に紹介するのは、朝倉文夫作、昭和10年の「報知賞杯 第三回互選和歌人選部会」メダルです。

以前、このメダルが手に入る前に「まだ見ぬメダルたち」と題して記事を書きました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2017/04/blog-post_12.html
ここに書いてありますように、このメダルについて朝倉文夫が文章を残しているのですね。
それを昭和17年発行の彼の書籍「美の成果」に「人麿と芭蕉」としてまとめられています。

「人麿と芭蕉」によると、報知新聞社のメダル制作依頼を同郷の廣田湘水漁郎という人物が朝倉文夫に伝えたそうです。また、報知の学芸誌に載せるため、メダル制作の為の考証や史実を文章にするよう頼まれたそう。

『さうだろうネ、歌の聖の人麿、俳句の聖といへば芭蕉、これを一個のメタルの場面に組み立ててみるか』と朝倉文夫が述べ、制作に入ります。

朝倉文夫は柿本人麻呂の姿について、伝説が多くはっきりしないため、『白鬚をしごいた老人でありたい。さうして服装は布衣や直衣でなくして、後世随身、即ち闕腋袍(けってきのほう)の模範となつたものが、僧侶以外の奈良時代の服装であつたように思はれるのである』と姿を選びます。
芭蕉の姿については旅装束のイメージが強く、それに合わせたようです。
『そうして歌の聖と対坐した構図をとつたのであるが、當時江戸の俳壇には貞徳の古風、宗因の檀林派が共に行われていたが、芭蕉は檀林派の新しさを好んでこの派の人々と多く交友してはいたが、檀林のいたづらに奇警で眞實のないところにあきたらず、遠く萬葉集の自然を魂とし、その時代生活を取り入れたいはゆる正風を創始したのであるから、1個のメタルの中に一千年の隔たりのある二人の聖をかうしたえにしの糸でつないだのであつた』

そうしてできたメダルは、朝倉文夫には珍しい物語的で複数の人物(しかもおっさん)を配した作品になってます。
メダルの円形で切られた構図ともに、そこから感じられる二人の間の空気。
流石朝倉文夫と思わせるメダルです。

2021年12月20日月曜日

「光──臺灣文化的啟蒙與自覺」黃土水と「甘露水」

18日から、台湾の国立台北教育大学北師美術館で行われています「光──臺灣文化的啟蒙與自覺」に、私のコレクションから「黃土水」の絵葉書を展示させて頂いています。

この展覧会では、今年発見された黃土水の代表作「甘露水」が展示されています。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2021/01/blog-post_13.html
そこに、当時発行されたこの絵葉書を並べて展示するようです。

黃土水は、台湾に生まれ、東京美術学校で学んだ作家です。
以前にブログでも紹介した作家ですね。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2021/01/blog-post_13.html

「甘露水」発見の経緯はコチラの記事で読むことができます。
林曼麗教授の記事はコチラ

甘露水に残るインク跡にたいし、林曼麗教授は、当時の人の裸体像への不快感からインクをかけられたのではと推測されています。
この時代、文化は西洋から東京へ、そして地方へとヒエラルキーに沿ってありました。
インクをかけた人物の不快感は、そういったモノへの違和感の表明なのでしょう。
その違和感は、新たな表現(この場合はインクをかけるですが、)として、台湾と日本に新たな反応を生み出していった(または生みだしていっている)のではないかと思います。そして、この反応こそが文化なのだと思います。
ですので、このインク跡は是非残して欲しいですね。

今回、私の所有する絵葉書を台湾に送らせて頂いたことで、私自身も新たな反応、台湾文化に対する新しい興味を抱きました。
台湾でもこの絵葉書を観て、新たな反応を生みだされる方があるかもしれません。
そういった国を超えて相互反応が生まれる場に参加できて有難いです。

2021年12月6日月曜日

新潟白山公園昭忠碑


新潟白山公園昭忠碑は、明治40年に除幕式がなされた114年前の銅像です。
現在も、白山神社境内に建っています。

詳しくは、藤井素彦さんによるこちらの論文にあります。
意匠は東京美術学校教授・島田佳矣、鋳造は岡崎雪聲です。
114年前の除幕式当日は、「市内ハ各戸国旗ヲ掲ゲ球燈ヲ点シテ敬意ヲ表シ午前ハ市川市山両派芸妓連ノ練リ込ミ等アリ」と、慰霊というよりドンチャン祭りだったようですね。

新潟の軍人慰霊碑として建てられたこの像は、球体化した日本地図の上に立つ神武天皇像と金鵄と、まるでショッカーのマークのよう。



地球儀には金箔された地があります。
画像では見えませんが、南樺太と千島列島、北海道から九州、日清戦争で得た台湾、遼東半島、そして朝鮮がそうなっているようです。
その地の上に神武天皇像が立っているのですね…

この金箔がいつなされたのか?
朝鮮併合前なのか、後なのか?
先の藤井さんの論文では、併合以前説に疑問を呈してます。
もしかしたら、併合後に金箔を追加したというのはどうでしょう?
どちらにせよ、この状態で残っているのが知れ渡ると面倒な問題になりそう…