2014年1月3日金曜日

荻島安二 作「第七回全日本女子籠球総合選手権大会 参加賞」メダル


先日亡くなられた彫刻家石黒鏘二さんが、芸大で石井鶴三教室で学び、卒業後マネキン制作会社で学んだことを自身の出発点と考えていらっしゃることを、ご自身の展覧会で紹介されていました。
その石井鶴三がセルロイド人形原型師になろうとしたように、当時の食っていくことの難しい彫刻家にとっての生活の糧としてのマネキン制作というというのがあったのでしょう。
石黒鏘二さんが「マネキン大学卒業」と言う時、そこには彫刻家の副業としての「マネキン制作」があり、アイロニーとしてそう話されていたのだと思われます。

しかし、そんなマネキンにも歴史があります。
そして、そのマネキンの歴史のはじめに語られるのが彫刻家「荻島安二」です。

荻島安二は明治28年の横浜生まれ、慶応大学予科より彫刻を志し、朝倉文夫氏の門下生となります。
1925年(大正14年)には、島津マネキンより依頼され、日本初の国産洋マネキンを発表します。
官展、二科展と出品しますが、その後日名子や齋藤素巌らの構造社に参加。
そして、昭和14年、43歳の若さで亡くなります。

彼はマネキンに関してこういう言葉を残しています。
「立体美術における総ての要素を含み、最も進化した彫塑の応用であり、行き詰まった彫刻に発展性を持った処女地」
まるで現代美術がオタク的フィギュアなんかを取り込んだ時の言説のようですが、マネキンから彫刻の新しい方向性を示そうという荻島の思いが読み取れます

そんな荻島の彫刻作品は、女性像が多く、そして横浜育ちだからか、ハイカラで御洒落。
この「第七回全日本女子籠球総合選手権大会 参加賞」メダルも際立って特徴的なモチーフではないのですが、どこかそんな感じを受けますね。

300点以上のデザインを生み出した荻島ですが、その作品のいくつかが東京国立近代美術館にあります。
こう見ると、ほんとうになんでもこなした荻島ですが、その中心に彫刻があったというのは面白い。
高村光太郎らとは別の方向で近代を表す彫刻家ではないかと思います。

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