2013年3月12日火曜日

Intermission 岡本一平と地元の文化

現在、みのかも文化の森で「岡本一平展 -世態人情を描く-」展が行われています。
この展覧会の企画の一つ、この地域の岡本一平ゆかりの地をまわるバスツアーに参加してきました。

岡本一平は、昭和20年に岐阜県加茂郡西白川村(現加茂郡白川町)に疎開します。
そして、地元の人たちとの関わりの中で文化活動を行ないます。


そんな活動の一つが、「漫俳」です。
 「漫俳」とは、俳句や川柳や狂歌をベースに、新しい詩をと一平によって考え出されたものなのですが、定義は難しそうです。
上の石碑は三川地区で行われていた一平の句会、漫風句会の記念碑です。

昭和23年、こちらに来て、たった3年あまりで岡本一平は亡くなります。
しかし、彼の「漫俳」文化は、現在もその句会の参加していた方々の尽力により、行われているそうです。

岡本一平が火葬された火葬場跡地付近

 岡本太郎もかの子について書いた瀬戸内寂聴も、僕の地元を寂しい田舎のように言っていますが(まぁ、そんなですが)、古くより中山道の宿のあったこの地は、決して文化不毛の地ではありませんでした。
そんな地元文化や文化人の紹介を下記にいくつか... 

まずは、岐阜出身の彫刻家、加納鉄哉について。
加納鉄哉は、1825年生れ。現在美濃加茂市にある正眼寺で修行をしています。
その後、細工物を学んで、国内勧業博覧会への出品。
フェノロサや岡倉天心らと知り合い、行動を共にするようになります。
天心の勧めで東京美術学校の教授となるが、すぐに辞職。
加納鉄哉は、彫刻家というよりも誇り高き職人であったと言えるでしょう。

加納鉄哉書簡

次は、最近注目度が高い、吉田初三郎について。
初三郎は絵地図師とでも言うのでしょうか、一風変わった鳥瞰図を描きます。
関東大震災があった1923年から1936(昭和11)年ごろまでを犬山で仕事をしています。
僕も彼の作品が欲しいです!

そして、岐阜市鶯谷の浄土寺には、ロダンのモデルを行なった花子の墓があります。
花子が欧州から岐阜に戻っていた昭和2年には、高村光太郎が会いに行っています。

地元であるのに知られていない所謂「岐阜事件」。「板垣死すとも自由は死せず」」のアレですが、 その場所には現在板垣退助の銅像が建っています。
けど、この銅像は初めに建てられたものと形が違うんですね。
金属回収令のために提出され、再建されたもののようです。
下の写真がかつての板垣退助像



最後に、可児市土田に疎開していた彫刻家、土方久功について。
土方久功は、パラオ諸島やヤップ島を調査、研究を行い、そして南方を思わせる彫刻作品を制作します。
高村光太郎らに見出された土方彫刻は、官展などとは異なる独特の立ち位置にあったといえます。
彼は、1944(昭和19)年に、岐阜県可児郡土田村(現在の同県可児市土田)に疎開します。
その頃のことを文章で残しているのですが、余り良いイメージを持てなかったようです。
隣町には岡本一平がいたのですが、交流があったのかは不明。
岐阜にいた頃の土方久功の情報が見つかりましたら、また報告します。

土方久功著 パラオの神話伝説 1942年発行
土方久功の1958年 年賀状

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