その内部には、八聖人として、キリスト、ソクラテス、孔子、釈迦、聖徳太子、弘法大師、親鸞、日蓮の像が建っています。
展示風景はこんな感じです。
これら聖人像の作者には、当時の彫刻界の代表する彫刻家たちを揃えており、八聖殿に行くだけで、そんな作品を一同に見ることができるわけです。
まず、銅製のキリスト像は、清水多嘉示作。
1928年にヨーロッパから帰ったばかりの清水多嘉示は、院展に所属。
藤川勇造は二科会所属。
二人の作風を比べると、同じ欧州で遊学した二人ですが、ロダンに学んだ藤川勇造とブールデルを師事した清水多嘉示との時代差を感じますね。
より古典的で抽象度の高いのが清水多嘉示。
ギリシャ風なのが 藤川勇造。
木製の釈迦像は、田島亀彦作。
田島亀彦は仏師の出で、朝倉塾に所属。
朝倉塾関係者で木彫とは珍しい作家です。
この釈迦像は、ガンダーラ仏教美術を模して作られており、古典的技法の仏像でありながら、その概念として近代的な仏像だと思います。
そして、聖徳太子像の作者は、その朝倉文夫。白銅製。
ものすごく肉感的な聖徳太子像ですね。
朝倉文夫のことなので、きっと、似ていると考えた人をモデルにしたのでしょう。
そして、木製の弘法大師像もまた、朝倉塾に所属した長谷川桝蔵の作。
空海の持つ独鈷杵は、伝統に沿って、ありえない方向に曲げられて持っているものなのですが、この像は実際持てるようになっていますね。
朝倉の写実主義が生かされているのでしょうか。
それにしても若々しい空海。
それに比べ、年老いた親鸞像は、朝倉塾所属の長谷秀雄の作。銅製。
親鸞の東国布教時の姿に見えますが、その頃は60代でこれほど老けていない。
きっと、親鸞のイメージなのでしょうね。
こちらも写実的な親鸞像で、ここまでいくと、浄土宗信徒のそれぞれが持つイメージの親鸞像と大きく差があったのではないかと心配してしまいます。
最後は、 構造社所属、日名子実三の銅による日蓮像。
日蓮の強烈な意思を感じさせる像ではありますが、こちらも本家日蓮宗からしたらどうだったのでしょうね。
紹介していない孔子像は、北村西望の作
これだけ絵葉書がないのでですが、いつか手に入れるつもりです。
さて、各作家の所属する日本美術院、二科会、朝倉塾、構造社と、それぞれの代表を巧みに配したところに安達謙蔵の政治観を思います。
それでも朝倉塾関係者が4名というのは、それだけ政治力があったということでしょう。
誰が、どの聖人を制作するかでもめやしなかったかと、この作家陣を見るとヒヤヒヤします。
全体の作風として、古典と近代とを混ぜたような印象で、それが当時あった思想を表現しているものなのだろうと思います。
全体の作風として、古典と近代とを混ぜたような印象で、それが当時あった思想を表現しているものなのだろうと思います。
「八紘一宇」とは、田中智學の言うところ 、
「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。」
と、これを意味する。
まさにこの八聖殿が表しているような、世界を一つにする意思を指しているわけです。
しかし、田中智學が言うように、「各自の特色特徴を発揮し」でなく、「統一」の意思が優先され、各聖人のそれぞれの信仰や信者がないがしろにされている感があります。
また、マホメットや、パウロ、多くの宗教者や思想家の姿がないことから、思想的な取捨選択がなされていることがわかります。
それは「統一」と矛盾します。それが当時アジアを一つにしようとした「八紘一宇」の思想の限界だったのでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿