2013年3月10日日曜日

彫刻の「教育」に就て その2

前回は、彫刻家になるための教育史についてざっと書きましたが、今回は児童教育における彫刻ついてです。

近代児童教育における彫刻を用いた教育は、「手工科」として、明治19年に高等小学校へ、ついで尋常小学校にも随意科目として設置されたことから始まります。
大正15年の小学校令改正によって、手工科が必修となり、教育にしめる彫刻の役割が大きくなります。ここで求められた教育効果は、技術としての手工だけでなく、情操教育としての面も強調されています。
そういった情操教育としての美術教育のあり方を提唱したのが、山本鼎の自由画運動で、彫刻を用いた教育もそんな大正デモクラシーの流れの中で生まれ育ったようです。

では、山本がどういった教育効果を志向していたかについて、手元に大正15年発行の「アルス婦人講座」があるので、そこに書かれた山本鼎の自由画教育講座「家庭と美術教育」という文章を抜粋してみます。
 山本は言います「子供達が好んで絵を描く、それは実に優しい良い遊びだ。」「極く自然に彼らの『見る生活』が開展する。」「子供の眼は技術的行楽のうちに自然に成長し、やがて美を識り出す。」
山本にとって「美」意識の教育の目的とは、「その結果として国民全体、いや人類全体が、美に対する徳性を有つに至る事」 だと言います。
この「美」意識信仰は、あのマルクス信仰のように、皆が念じれば幸せになれるというような、イデオロギーとして熟されたものだとは言えないところもありましたが、当時の教育にたいするカウンターとして大きな意義があったろうと思います。

そのような自由画運動ですが、彫刻における提唱者の一人が横井曹一です。彼は、大正13年に、「児童芸術 粘土彫塑と木彫」という本を出版しています。

そういった流れの中で、彫刻家たちもその技術と思想を児童教育に注ぎ込みはじまめす。
大正12年には、すでに東京美術学校の教授であった建畠大夢や北村西望ら児童彫塑展覧会を開いています。
それを記事にした読売新聞の婦人欄では「子供が眼に観て感じたままの表現」として、西望の談を掲載「例えば鶏を作った場合にそれがたとえ形が整っていなくとも、鳴くところを感じて作った口を開いたものであれば、それで立派に認めてやるというようにする。ようするに技工などを問題にしてはならぬ」と、山本鼎ほど徹底されてはいませんが、児童の表現意識優位の教育法を推奨しています。

また、同年、藤井浩祐によって三越で、同じく児童彫塑の展覧会が行われています。
面白いのは、ここで展示した作品を売って生徒に還元しているってことです。

昭和16年発行 児童用美術の教科書「エノホン」より

現役の彫刻家たちは、彫刻(彫塑)という新しい分野を育てるために、そして彼らの思想を伝えるために児童教育に積極的に関わろうとしたようです。
先に書きました「民族の身体に就て。」にある近代人としての自我を描くことを児童教育に求めます。
もしかしたら、児童教育の方が、彫刻家たちのそれより成功していたのかもしれませんね。

このような彫刻を用いた児童教育は、戦後も必要とされ、行われますが、そこはまた機会あれば語ることにします。

0 件のコメント:

コメントを投稿