2013年2月14日木曜日

安藤照に就て


前回、安藤照についてちょっとだけ触れましたので、今回は彼について書こうと思います。
東京に住んでいる人であれば、彼の彫刻を一度は目にしたことがあるかと思います。
あの渋谷のハチ公像がそれです。ただ、あれは戦時中に金属回収され、安藤照の息子によって再建されたものですが。
では、なぜその時彼自身が制作しなかったのか。
なぜなら安藤照が、その戦争末期、1945年(昭和20年)5月に行われたアメリカ軍による空襲、東京大空襲によって 亡くなっていたからです。
米軍の首都への空襲は、1945年(昭和20年)の3月、4月、5月とにわたり5回行われ、8万人の民間人が犠牲になり、また多くの文化財が灰と化します。
現在、当時の戦争彫刻の多くを見ることのできないのは、この時、失われたからです。
また、4月の空襲では高村光太郎と智恵子の思いである自宅が焼かれ、数少ない作品や資料が失われています。
戦争によって、人命だけでなく、文化もまた大きな犠牲を強いられました。

上の画像は、僕の所有している安藤照の直筆です。
彼が主催した彫刻団体「塊人社」の一人、小倉一利の塑像領布會、會員芳名録になります。
安藤の彫刻観が書かれており、彼の数少ない資料の一つではないでしょうか。

安藤照は、1892年(明治25年)、鹿児島生れ、東京美術学校へ入学中に帝展入選を果たし、新人の登竜門であった官展の若きエリートであったと言えます。
同じくエリートの中のエリートであった朝倉文夫に師事し、彼の朝倉彫塑会に参加します。
しかし、1928年(昭和3年)、官展の審査選考の問題のゴタゴタがあり、その大きくなりすぎた朝倉の影響力から逃れ、新たに「塊人社」を結成します。

彼と同時期に朝倉の下にいた齋藤素巌や日名子実三が、同じく彼から離れて「構造社」を立ち上げたように、「塊人社」も新しい彫刻のあり方を目指したのでしょうが、如何せん資料が少なく、まだわからないことが多い。参加メンバーに堀江尚志がおり、彼の作風からして安藤照からも良い影響を受けあったのではないかと想像できます。
僕は、朝倉文夫→安藤照↔堀江尚志→舟越保武→詩的な抽象彫刻と、現在も繋がる彫刻の流れの一源流が安藤ではなかったかと考えています。また何かわかりましたらこのブログで紹介しますね。

 一番上の絵葉書の画像は、鹿児島県人であった安藤照による西郷隆盛像です。
これは現在も鹿児島に立っております。この像についてはWikiに詳しく書かれています。

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