2013年2月11日月曜日

彫刻家と挿絵に就て

石井鶴三筆 「踊り子」

明治以降、出版の技術の向上と市井の人々の趣味の変化に伴い、江戸から続く挿絵文化に飽き足らなくなった市民は、新しい挿絵画家を求めた。
西洋美術を会得した美術家にその矢が向けられたが、洋画家たちは画業の片手間に行う挿絵の仕事を潔しとしなかった。
その隙間産業に目をつけたのが、西洋的な技術を学び身に付けていた彫刻家たちであった。
 挿絵画家としても有名な彫刻家に、戸張孤雁石井鶴三清水三重三河村目呂二梁川剛一等々があります。


清水三重三直筆原画

その彫刻家の中の一人、石井鶴三の所謂「挿絵事件」とは、中里介山の小説『大菩薩峠』での鶴三の挿絵に人気があり、、その中から『石井鶴三挿絵集第一巻』を出版しようとするが、原作者に断りを得ず、金もよこさず何をするんだと、中里介山に訴訟を起こされた事件を言う。
結果、鶴三の勝訴となって、そのおかげで、挿絵そのものが芸術作品だと認識されるにいたった。
ここから近代挿絵の時代が始まるとは言うのですが、何故、洋画家が不純だと避けた挿絵仕事を彫刻家は請けたのか。
その一つの理由に、当時の(現在も)彫刻家たちが貧乏だったというのがあるのだろうと思います。
売れない、金のない彫刻家たちは、中原悌二郎にしても橋本平八や木村五郎にしても、早死にするわけです。評論家落合忠直に「呪われている人達をよ」と言われるわけです。
ゆえに、手っ取り早く金になる挿絵を請けた。
 そういう面もあったろうと思います。
でも、それでも「呪われた」彫刻家たちは、得た金を注ぎ込んで彫刻をしてしまうのですね。

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