2017年11月12日日曜日

日名子実三 作 主婦之友社「軍人援護会長賞」楯 

久しぶりに日名子の楯を手に入れました。
財団法人 文化事業報国会 主婦之友社による「軍人援護会長賞、建気なほまれの会表彰」です。

この記念楯には年号がありませんが、財団法人 文化事業報国会の成立が昭和16年なので、そこから昭和20年までの4年間に使用された物だ推測します。

左上に日名子実三の銘があります。
描かれたのは、楠正成楠の嫡男、楠木正行(くすのき まさつら)。
楠木正行は、四條畷の戦いで足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の正時と共に自害したとされています。
太平記には、この合戦に赴く際、吉野の如意輪寺の門扉に辞世の句を矢じりで彫ったと言う物語があり、このレリーフはその姿を描いたものだと思われます。
中央には、その辞世の句が描かれています。

「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」


戻らない梓弓の如く、我々も生きて帰ることはない。死んで名前をここに残す。
と言った内容でしょうか?

楠正成楠の像と言えば皇居外苑が有名ですが、彼の銅像は戦中、二宮金次郎像と並んで数多く造られています。
そういった中でその子楠木正行の像というのは珍しいですね。

ここで楠木正行が選ばれたのは、主婦の友社によって銃後の女性や子供たちを顕彰した「軍人援護会長賞」ならびに「建気なほまれの会表彰」であることがその理由ではないでしょうか。
つまり、楠正成楠の意思を継ぎ、その背中を追いかける正行の姿に、前線で亡くなった者の意思を継ぎ、銃後を守る女性や子供たちの姿を重ねさせたのでしょう。

そう、辞世の句の心持を銃後の人々に訓示しているかのような楯なんですね。
この日名子の楯は、言葉と物語とその彫刻作品とが、がっちり合った完全なプロパガンダであり、それでいて、作品として美しい...
私の持つ日名子作品の中でも一級品の一つだと思っています。

2017年11月5日日曜日

「国民美術」大正13年発行 畑正吉「芸術の時代様式」

国民美術協会発行、美術雑誌「国民美術」大正13年発行 第壱巻 第弐号 通巻第二百四十二号、これに畑正吉が「芸術の時代様式」という文章を寄せています。

この文章は、確か現代の本に再録されていたような。どうだったかな?
ここでもう一度再録するのも面白いのですが、大切なのは畑正吉が何をどう考えていたのかですので、ここは概要にしたものをお伝えし、畑の思想を理解してみたいと思います。
と言っても、私が訳しますので、理解が及ばない部分もあるでしょうが、そこはスミマセン。


芸術の時代様式
 畑正吉 ブログ主(訳)

私たちは、古代の遺物や非欧米文化の製作物や子供の作品を鑑賞すると大いに感銘を受け、共鳴します。
そして、芸術のありがたさを教えられ、真の芸術は時代を超越し永久の生命を持っていると信じるわけです。

ただし、時代は水の様に流れ続け、同じ所にとどまりません。
美術を愛する人は過去の時代の芸術に憧れ、研究し、そこに戻るべきだと論じることもありますが、それはそういった愛好者の個性であって一面の見方に過ぎないと私は思います。

芸術家は、過去の芸術を研究し、これによって大自然の尊さを感受し、自身の作風の一要素とするべきでありますが、それと全く同じに達しようとするのは不可能なのです。

無垢な子供の作品は、ある点で原始時代の素直さを持っていると言いますが、それもある点でしかなく、私たちは煩悩を抱えた現代社会の中で生きていくことしかできません。
しかし、私たちは煩悩のみを抱えて生きているわけではありません。それは、私たちが過去の芸術に触れることで感銘し、共鳴していることでわかります。
もし私たちがただ不純であるならば、芸術は時代を超越して永い生命を保つことはできないでしょう。
私たちは、煩悩(不純)の社会で「真」を持って生きているのです。それを私は「人間芸術的本能」の真情と名付けます。

この真情は有史以来現代に至るまで、そして未来永劫あり続け、さらに螺旋状にあって、始まりあれど終わりはないものです。
純(プユール)であった始まりは、時代の推移によって複雑になり、重なりあってその輪郭ができあがります。
その中で多少の屈折はあっても真情は連綿として変わること無く進むのです。

真情が変わること無く進むのに何故各時代の芸術が多種多様であるか、これを論じるのに私の「工芸芸術の独立」論をもってお答えします。

真の芸術は時代を超越して永久の生命をもち、それゆえ敬意を払われるものです。
しかも、それらの芸術は、その時代の社会意識、時代思潮の影響を受け反映されます。
その両方を統合したものがある時代の様式として現れるのです。

これを後世から見て、様々な様式の展開のみに目を奪われ、時には真情さえも見えなくなっているとき、それは(良い意味での)迷いなのです。
人は迷わされ、時には行き詰まり、そのお陰で真情を進みながらもなにか新しい物を産すことができます。
人種、気候、風土によっても異なる特色として現れます。
ギリシャやローマの作品を復興したルネッサンスといえど、それはその当時の複製ではなく、ルネッサンスの芸術として優れているです。

よって私たちはそういった真情を辿れば、すぐにでも原始時代やギリシャ、ローマの他、どんな時代の芸術でも感受することができるのです。

つまり、様式とは真情を包んだ時代思潮の反映なのです。故に私たちは無意識的に時代様式を産み続けていると言えるのです。
しかし、ただ単に古来の作品を複写するもの、開祖の様式を受け継いで行っているもの、これは時代思潮を無視した複写でしかないと言えます。

また、工芸製作の時代様式については、これが実用と装飾とを併用するものであり、その用途にたいし約束ごとがあります。
その約束ごとが人の生活に必要な形式となって永い年月をもって形式として形成されていきます。
そして工芸作品は、その形式の範囲において芸術の自由があり、多様に変化して時代思潮を遷した様式となって現れるのです。
それを形式に囚われた様式だと断じるのは誤りなのです。
そう、真情を隠して時代思潮の衣を被った工芸芸術であれば、永遠の命を保ち、永遠に敬意を払われるものとなるのです。
(おわり)


畑正吉の主張は、工芸もまた、大文字の芸術の一つだと言うことでしょう。
そのために古代美術や児童の作品を持ってきて、芸術の範囲を大きく広く表すところに畑の思想のダイナミズムを感じます。
所謂アールブリュットをも芸術史に含もうとしているのですね。
そのダイナミズムが後半の「工芸芸術の独立」論でややトーンダウンしているように思えます。

それと、実はこの文章の次頁は高村豊周が工芸そのものを評価する文章を載せています。
豊周は、工芸部門が帝展に編入されたことでの工芸界のアレコレを書いているのですが、ことさらそれを他の芸術と比べることはしていません。
それと比べてみると、畑は、工芸を「芸術」に近づけようと考えているとわかります。
つまり、工芸は「芸術」でなはないことが前提なんですね。畑はその橋渡しをしているのです。

そこから、鋳金等の確立した価値体型を持っている豊周と違い、純粋美術と工芸の合の子的なメダル等を仕事としてきた畑正吉の立ち位置が見えてきます。
その場所に一生立った畑の想いを含め、この文章を再度読めば、文中に収まりきらない彼の叫びが聞こえてきます。

2017年11月3日金曜日

小平市平櫛田中彫刻美術館でのトークイベント無事終了

トークイベント、無事終わりました!



もっと私のトーク力を磨かなければなぁ~等々、思うこともありますが、まぁ、なんとかなったかな?
館長さんが、藤井浩祐の帯紐を着けていらっしゃって、とても素敵でした。
こうやって現役で使っているのは良いですね。

メダルの展示は、とても美しく展示がしてあってありがたく思いました。
他のコレクターの作品もありまして...これがとても良い物でして....羨ましい.

翌日は生憎の台風で、楽しみだった神田の古書市の屋台は中止…
けれど、古書会館では4冊の雑誌を買えました。
大正13年の「国民美術」1冊、大正14年が2冊、それに昭和16年の「造形芸術」。
「国民美術」には、畑正吉、朝倉文夫、石川確治、小倉右一郎、「造形芸術」には本郷新らの文章が載っています。
けっこう面白いので、それぞれの内容をこのブログで書いていくつもりです。

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現在、小平市平櫛田中彫刻美術館にて「メダルの魅力展」開催中!
来週12日までです。
http://denchu-museum.jp

2017年10月20日金曜日

28日はトークイベント!!

現在、小平市平櫛田中彫刻美術館にて「メダルの魅力展」開催中!
来月の12日までです。
http://denchu-museum.jp
展示されているメダルを掲載したカタログや私の書いた冊子なども置いてあるそうです。
是非、お越しください。

前にお話ししましたように、来週の28日(土)は13時30分より、私のトークイベントが行われます。
現在、色々仕込み中。
と言いますか、つっこまれないように色々勉強中...
気軽にお越しください...ね。

では、皆様に会える日を楽しみにしています!!

2017年10月14日土曜日

近代日本メダル史

明治期から太平洋戦争終結までの間の日本メダルの歴史をまとめてみました。
今後も、この忘却された美術史をさらに深く掘り下げていきたいですね。

年代 出来事
1867年(慶応3年) パリ万国博覧会にて、薩摩藩が日本の代表を称し、フランスのレジオンドヌール勲章を摸した「薩摩琉球国勲章」を制作、ナポレオン3世以下フランス政府高官に贈る。
1869年3月17日(明治2年2月5日) 新政府の太政官中に造幣局が設置される。
1869年(明治2年)7月 彫金家加納夏雄とその門下益田友雄は新1円銀貨貨幣の図案及び見本貨幣を試作する。
1871年10月15日(明治4年9月2日) 政府が賞牌(勲章)制度の審議を立法機関である左院に諮問する。
1873年(明治6年)3月 細川潤次郎、大給恒ら5名を「メダイユ取調御用」掛に任じ勲章に関する資料収集と調査研究に当たる。
1875年(明治8年)4月10日 賞牌欽定の詔を発して賞牌従軍牌制定ノ件(明治8年太政官布告第54号)を公布し勲等と賞牌の制度が定められる。
1875年(明治8年) 有栖川宮幟仁親王以下10名の皇族が叙勲される。
1876年(明治9年) 台湾出兵の功により西郷従道が勲一等に叙された。また同年には、清国との交渉に功のあったアメリカ人のルジャンドルとフランス人のボアソナードが最初の外国人叙勲として勲二等に叙される。
1876年(明治9年)10月12日 正院に賞勲事務局(同年12月に賞勲局と改称)を設置し参議の伊藤博文を初代長官に、大給恒を副長官に任命する。
1876年(明治9年)11月15日 太政官布告により、賞牌は勲章(従軍牌は従軍記章)と改称される(明治9年太政官布告第141号)。
1877年(明治10年)8月 第1回内国勧業博覧会開催。加納夏雄による龍紋章賞牌が制作される。
また、博覧会の第1類其の3として貨幣やメダルが展示される。
1890年(明治23年) 武功抜群の軍人軍属に授与される金鵄勲章(功一級から功七級の功級)が制定される。
1894年(明治27年) 日清戦争勃発。
1902年(明治35年)3月 新海竹太郎が太平洋画会展に「少女浮彫凹型」及び「婦人メダル用原型」を出品する。
1903年(明治36年) フランスから東京美術学校に、メダル作成の為に用いるジャン・ビエー式縮彫機が導入される。
1903年(明治36年) 第五回内国勧業博覧会の名誉賞杯として、海野美盛が縮彫機を用いてメダルを制作する。
1903年(明治36年) 萩原守衛が生活したニューヨークのフェアチャイルド家にて、フェアチャイルドを描いたメダル原型を制作する。
1904年(明治37年) 日露戦争勃発。旅順港のロシア艦隊を日本海軍駆逐艦が奇襲する。
1904年(明治37年) フランスから造幣局にジャン・ビエー式縮彫機が導入される。
1904年(明治37年) 海野美盛が欧米遊学より帰朝する。東京彫工会主催第19回彫刻競技会にて、欧米のメダル原型や各国のメダル標本等を参考出品する。
1910年(明治43年) 造幣局の甲賀宣政、ベルギーにて「万国銭貨学大会」に参加する。
1910年(明治43年) 造幣局にてジャン・ビエー式縮彫機を用いたメダル作成が始まる。
1910年(明治43年) 戸張弧雁が太平洋画研究所彫塑部に入り、メダル原型を制作する。
1911年(明治44年) 大日本体育協会が創立。初代会長として嘉納治五郎が就任。オリンピックや極東選手権大会などに選手を送る。
1913年(大正3年)2月1~6日 マニラにて第一回極東選手権競技大会が行われる。
1915年(大正5年) 高村光太郎による園田孝吉銅像完成。同じく記念メダルを制作する。
1915年(大正4年) 畑正吉が、造幣局の賞勲局技術顧問(嘱託)として記念メダル彫刻を手がける。
1916年(大正6年) 斎藤素巌が英国ロイヤル・アカデミーを修了し、帰朝する。
1918年(大正7年) 日名子実三が東京美術学校を首席で卒業。メダル制作を始める。
1920年(大正9年) ベルギーで開催されたアントワープ五輪にて、熊谷一彌選手がテニスのシングルス・ダブルスともに準優勝し、日本人初の2つの銀メダルを手にする。
1923年(大正12年)9月 関東大震災起きる
1924年(大正13年) 第1回明治神宮競技大会開催。1943年(昭和18年)の14回大会まで行われる。
1926年(大正15年) 齋藤素巌や日名子実三によって構造社が組織される。
1926年(大正15年) 写真雑誌 アサヒカメラ 第1巻発刊。写真コンテスト賞牌メダルの需要が生まれる。
1927年(昭和2年) 「第一回塑像展覧会 構造社」が開催される。以下ほぼ毎年行われる。
1928年(昭和3年) オランダのアムステルダム五輪に出場した織田幹雄選手が陸上男子三段跳で金メダルを獲得する。記録は15m21cm。
1932年(昭和7年) ロサンゼルス五輪の芸術競技大会に日名子実三らが出品。長永治良による版画「虫相撲」が等外佳作として入賞。
1935年(昭和10年) 日名子実三や畑正吉らによって第三部会が組織される。
1936年(昭和11年) ベルリン五輪の芸術競技大会参加。長谷川義起の彫刻「横綱両構」が等外佳作として入賞。
1937年(昭和12年) 日中戦争(支那事変)起きる。
1937年(昭和12年) 学術、芸術上の功績があった者に対し授与される単一級の文化勲章が制定される。
1940年(昭和15年) 予定されていた東京での夏季オリンピックが取止めとなる。
1940年(昭和15年) 第三部会が国風彫塑会と改称される。
1941年(昭和16年) 太平洋戦争(大東亜戦争)始まる。
1945年(昭和20年)4月25日 日名子実三、脳出血により死去する。
1945年(昭和20年) 終戦。 

2017年10月8日日曜日

藤井浩佑作「第14回全国選抜中等学校野球大会」バックル

藤井浩佑による「第14回全国選抜中等学校野球大会」バックルです。
現在ある春の選抜高校野球大会にあたる大会で、第14回の皇紀2597(昭和12)年に行われた本大会では、大阪の浪華商(現在の大阪体育大学浪商高等学校)が優勝しました。

このバックルは、その大会の記念品として制作されたものだと思われます。


作家の藤井浩佑はこのバックルと同じモチーフで夏の高校野球大会のメダルや、幾つかの立体の彫刻を制作しています。
よほど気に入ったモチーフだったのでしょうか。

ただ、野球をやったことのある方ならアレッ?って思うかもしれません。
いや、逆に違和感抱かないかな?

というのも、このモチーフの選手は、左手を右手の上でバットを握り、右足を前に大きく踏み出しています。
つまり、これは左打席に入った左打者が、振り抜いた時の姿なんですね。
下の動画を見ていただければよくわかると思います。

では、なぜ藤井浩佑はわざわざこの姿を選んだのでしょう?
「オレは野球に詳しいぜぇ~!ニワカとはとは違うんだぜぇ~」というマウンティングだったのでしょうか?
または、当時有名な左打者があったのかもしれません。
例えば、この大会の3年前、昭和9年にベーブ・ルースが来日し試合をしています。
この姿に影響を受けたのでしょうか?

動画はベーブ・ルースの打撃フォーム
さて、真実はどうでしょう?

2017年10月1日日曜日

Intermission 式場隆三郎「狂人の真似とて大路を走らば狂人なり」


式場隆三郎の色紙です。
狂人の真似とて大路を走らば狂人なり

これは、吉田兼好の「徒然草」に出てくる言葉です。
『人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。
己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。
大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとすと謗る。
己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬこの人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。』

この一節は、儒教の思想を説いたものだと考えられます。
儒教では、天子と同じように行動し、同じように振舞えば、それは天子だとする考えがあります。人間の内面(何を信じ、考えているか)より、その表出たる行動を重んじる思想です。
「舜を学ぶは舜の徒なり」つまり、ある信仰や思想を志向する者は、すでにその信仰下にある。故にそう振舞うことが重要だと説いています。
これを強調するための「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」なのです。

しかし、式場隆三郎は「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」の部分だけを抜き出しています。
これでは「徒然草」の意図が伝わりません。まったく反対の意味になってしまします。
なぜ、彼はこのような事をしたのでしょうか?

もしかしたら、ただ『なんだかわからないけど、「狂人」という言葉が出てくるしカッコイイ!!」といった安易な意図だったかもしれません。それもまた式場隆三郎らしい。
もう少し優しい目で見れば、「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」を抜き出すことで「徒然草」とは異なる意図を示したいのではないのかとも思えます。

この言葉を抜き出した事、それはつまりこの言葉に価値があると式場隆三郎が考えたと想像できます。
彼は、「狂人の真似をする者は、狂人になりえる」と言った意味でこの文章を訳し、「狂人」に価値を見出し、「狂人」になることを推奨しているのだと言えます。

ゴッホに魅了され、ゴッホが狂人であることに価値があると考えていた(戦前の)式場隆三郎にとって、そういった思想を表す言葉だったわけです。
その思想を強調したいがために、「徒然草」の意図を反転させたのです。

しかし、「狂人」になることと、ゴッホのように狂人であったこととは違います。
あえて「狂人」であろうとする思想、私はその思想の根元に、仏教があるのではないかと考えています。
例えば一休禅師や良寛さんにみられるような狂気。
仏教には一般常識に反する思想があります。世俗から出家し、その全てを否定(実際には空と)する態度を取る仏教には、そういった狂気が含まれています。
親鸞上人の悪人正機「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」もまた、そういった狂気の面があると思います。

仏教は悟りを目指す信仰であり、そのための修行を行っているわけですが、そういった修行を行わないで悟っている者を「縁覚」または「独覚」と言います。
維摩経で語られる維摩居士が有名で『文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。』と言います。
維摩居士はまさに「狂人」として描かれ、ここに「狂人」であろうとする思想の一角を見ることができると思います。

こういった「縁覚」を示す物語で、日本人に好まれたのは「寒山拾得」の二人です。
寒山と拾得は、中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる風狂の僧です。
この二人の絵画は多く描かれ、特に曽我簫白や長河鍋暁斎による図が有名です。
また、森鴎外や井伏鱒二がその物語を描いています。
これらについては、松岡正剛さんの書評での紹介が一番わかりやすいので、リンクを張らせていただきます。

コレクションより-加納鉄哉画「寒山拾得」図

なぜ「寒山拾得」が好まれたのか。
それはこの二人の笑いという狂気に、一般常識や世間の壁を打ち破る力があり、それを託したからだと思います。
価値観をひっくり返す、新しい価値を生み出す力、その象徴として「狂人」である「寒山拾得」が用いられたのでしょう。

そう、こうして戦前まで好まれてあった「寒山拾得」の姿を見てみれば、式場隆三郎は、現代の「寒山拾得」として山下清を担ぎ出したのだとわかります。
式場は山下の絵の「狂気」に「価値観をひっくり返す、新しい価値を生み出す力」を見出したのですね。
そして、そういった「縁覚」として彼をプロデュースした。

しかし、戦時には、お国のための労働力として、戦後には「障がい者」への養護のあり方や人権、ヒューマニズムから、こういった「狂人」のあり方は否定されます。
アール・ブリュットについても、以前に書いたように、いくつかの価値観で引き裂かれているように思います。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2017/02/blog-post_28.html

その結果、戦後に「寒山拾得」が描かれなくなってしまったのですね。
そして、式場の意図した「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」の言葉もまた、禁止用語となってしまったのでしょう。
つまり、戦前の式場隆三郎の「狂気」の扱いこそが、アール・ブリュットではないが、アートではあったと言えるかのもしれません。