2017年10月1日日曜日

Intermission 式場隆三郎「狂人の真似とて大路を走らば狂人なり」


式場隆三郎の色紙です。
狂人の真似とて大路を走らば狂人なり

これは、吉田兼好の「徒然草」に出てくる言葉です。
『人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。
己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。
大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとすと謗る。
己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬこの人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。』

この一節は、儒教の思想を説いたものだと考えられます。
儒教では、天子と同じように行動し、同じように振舞えば、それは天子だとする考えがあります。人間の内面(何を信じ、考えているか)より、その表出たる行動を重んじる思想です。
「舜を学ぶは舜の徒なり」つまり、ある信仰や思想を志向する者は、すでにその信仰下にある。故にそう振舞うことが重要だと説いています。
これを強調するための「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」なのです。

しかし、式場隆三郎は「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」の部分だけを抜き出しています。
これでは「徒然草」の意図が伝わりません。まったく反対の意味になってしまします。
なぜ、彼はこのような事をしたのでしょうか?

もしかしたら、ただ『なんだかわからないけど、「狂人」という言葉が出てくるしカッコイイ!!」といった安易な意図だったかもしれません。それもまた式場隆三郎らしい。
もう少し優しい目で見れば、「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」を抜き出すことで「徒然草」とは異なる意図を示したいのではないのかとも思えます。

この言葉を抜き出した事、それはつまりこの言葉に価値があると式場隆三郎が考えたと想像できます。
彼は、「狂人の真似をする者は、狂人になりえる」と言った意味でこの文章を訳し、「狂人」に価値を見出し、「狂人」になることを推奨しているのだと言えます。

ゴッホに魅了され、ゴッホが狂人であることに価値があると考えていた(戦前の)式場隆三郎にとって、そういった思想を表す言葉だったわけです。
その思想を強調したいがために、「徒然草」の意図を反転させたのです。

しかし、「狂人」になることと、ゴッホのように狂人であったこととは違います。
あえて「狂人」であろうとする思想、私はその思想の根元に、仏教があるのではないかと考えています。
例えば一休禅師や良寛さんにみられるような狂気。
仏教には一般常識に反する思想があります。世俗から出家し、その全てを否定(実際には空と)する態度を取る仏教には、そういった狂気が含まれています。
親鸞上人の悪人正機「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」もまた、そういった狂気の面があると思います。

仏教は悟りを目指す信仰であり、そのための修行を行っているわけですが、そういった修行を行わないで悟っている者を「縁覚」または「独覚」と言います。
維摩経で語られる維摩居士が有名で『文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。』と言います。
維摩居士はまさに「狂人」として描かれ、ここに「狂人」であろうとする思想の一角を見ることができると思います。

こういった「縁覚」を示す物語で、日本人に好まれたのは「寒山拾得」の二人です。
寒山と拾得は、中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる風狂の僧です。
この二人の絵画は多く描かれ、特に曽我簫白や長河鍋暁斎による図が有名です。
また、森鴎外や井伏鱒二がその物語を描いています。
これらについては、松岡正剛さんの書評での紹介が一番わかりやすいので、リンクを張らせていただきます。

コレクションより-加納鉄哉画「寒山拾得」図

なぜ「寒山拾得」が好まれたのか。
それはこの二人の笑いという狂気に、一般常識や世間の壁を打ち破る力があり、それを託したからだと思います。
価値観をひっくり返す、新しい価値を生み出す力、その象徴として「狂人」である「寒山拾得」が用いられたのでしょう。

そう、こうして戦前まで好まれてあった「寒山拾得」の姿を見てみれば、式場隆三郎は、現代の「寒山拾得」として山下清を担ぎ出したのだとわかります。
式場は山下の絵の「狂気」に「価値観をひっくり返す、新しい価値を生み出す力」を見出したのですね。
そして、そういった「縁覚」として彼をプロデュースした。

しかし、戦時には、お国のための労働力として、戦後には「障がい者」への養護のあり方や人権、ヒューマニズムから、こういった「狂人」のあり方は否定されます。
アール・ブリュットについても、以前に書いたように、いくつかの価値観で引き裂かれているように思います。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2017/02/blog-post_28.html

その結果、戦後に「寒山拾得」が描かれなくなってしまったのですね。
そして、式場の意図した「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」の言葉もまた、禁止用語となってしまったのでしょう。
つまり、戦前の式場隆三郎の「狂気」の扱いこそが、アール・ブリュットではないが、アートではあったと言えるかのもしれません。

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