2016年8月17日水曜日

Intermission 重箱の隅

最近の藤田嗣治展では、作家の戦時中の作品も、他の作品と同様に展示されていますね。
藤田の場合、これがなくちゃ話にならないというのはあるけど、他の作家はどうかな?
今までの彫刻家の作品展や書物ではどういう扱いがされているだろう?

手元にある1983年に行われた辻晋堂展のカタログには、1943年に臨時海軍報道班員になったこと、第二回大東亜戦争美術展に「陸戦隊の進撃」を出品、朝日新聞賞を受賞したこと、しっかり書かれています。

この当時の方が、風当たりが強かったんじゃないかと思っていたので、1980年代の展覧会のカタログに書かれていたことにはちょっとした驚き。

辻晋堂のサイトでも、この事が書かれていますね。
http://www.shindo-tsuji.net/index.php?lang=jp&page=bio
なんだか清い。

じゃあ、朝倉文夫はどうかな?
朝倉彫塑館のカタログを見てみると...
1944(昭和19)年の戦艦献納帝国芸術会員美術展出品、陸軍献納帝国芸術会員美術展出品、戦時特別文部省美術展出品と、これも書かれています。
さすが大将!

あの、平和記念像の作家、北村西望はどうかというと。
手元には、東京都井の頭自然文化園の作品目録しかなく、略歴も短いからなんともいえませんが、1941年に全日本彫塑家連盟の委員長になったこと、飛んで1945年に疎開したことしか書いてないな~
この公園には、「児玉源太郎大将馬像」「山県有朋公騎馬像」「日満鮮」など所蔵されているのですけどね。
特に「日満鮮」は凄い。日本、中国、朝鮮各国の民族衣装を着た三人の少女が並んで笑っている姿です。これは見てみたいな。

さて、あの本郷新はどうでしょう?
1975年の現代彫刻センター発行「本郷新」作品集には『1944(昭和19)年、野間美術賞受賞「援護の手」太平洋戦争次第に激しくなり、制作思うにまかせず、秋より奈良唐招寺にこもり、鑑真和尚の模刻に専念する。』とあります。
「援護の手」は、第一回軍事援護美術展覧会出品作で、これでの賞なのですが、そこは書かれない。
こっちもそう。
http://www.city.ube.yamaguchi.jp/kyouyou/choukoku/library/artist/hongou_shin.html

まぁ、本郷新だしね。しょうがないね。

カタログじゃないのですが、ヒトラーに愛された彫刻家アルノ・ブレーカー著「パリとヒトラーと私」には、彫刻家「イサム・ノグチ」と過ごした日々が書かれています。
彼らは隣同士のアトリエを借ります。色男だったイサム・ノグチの家には米国の女学生が押し寄せたそうだ。
その一人と結婚の約束したため、証人をアルノ・ブレーカーに頼み、彼らは祝杯をあげた。イサム・ノグチがブラックマンデーの煽りを食い帰国する際には、ブロンズの作品をアルノ・ブレーカーに手渡したと言う。

イサム・ノグチがパリ、デドゥーヴル通りのアルノ・ブレーカーの隣に引っ越してきたのは1928(昭和3)年です。パリでの彼は最初年上のフランス人女性アート・ディーラーと付き合っていたが、その後ニューヨークから若い恋人がやってきて、しばらく一緒に過ごしていた。女性が妊娠した結果、イサム・ノグチが中絶を強い、その処置が悪く、女性が生死にかかわる状態になったのだそうだ。

これは、イサム・ノグチ伝であるドナウ昌代著「イサム・ノグチ 宿命の越境者」に書かれていたことなのですが、ここにあるニューヨークから来た恋人というのが、アルノ・ブレーカーが結婚の証人になった女性だと思われます。
まぁ、偽装結婚の片棒を担がされたわけね。

で、この本には、アルノ・ブレーカーには何も触れていませんね。
女性問題の為か、アルノ・ブレーカーの問題の為かはわかりませんが。
アルノ・ブレーカーはパリでの日々として記しているのに寂しいね。

とまぁ、戦時の出来事を、彫刻家に関する書物がどう書いてきたか、重箱の隅をつつくように見てみました。

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