2013年1月26日土曜日

齋藤素巌に就て。


齋藤素巌は、1889年(明治22年)東京生れ。
彫刻家になることを志したが、父の反対で断念。その父が亡くなった後、23歳で英国へ渡り、ロイヤル・アカデミーで彫塑を学ぶ。
帰国後は苦学をしながらも彫刻家として台頭し、日名子実三と共に彫刻家団体「構造社」を立ち上げるなど、官展系とは一寸異なる独自の道を歩む。
現在、東京都小平市のグリーンロードで幾つか作品を観賞することができます。

その日本の彫刻界の主流であった官展系と距離を置く姿は、そのためか評論家受けがよく、高い評価と、メディアによる多くの紹介、また自身の発言機会の多い作家であった。
しかし、彼はそれに奢らず、潔癖を通し、例えば先に紹介した「ヱハガキ寫眞問題」の時は、官展への出品を拒否し、「今後独りで勉強を続ける 近く適当な方法で発表 當の斉藤素巌氏語る」とし、また自身が立ち上げた「構造社」も金銭問題を一人で背負った為に、結局代表を降りることになってしまいます。

作風は、当時の日本では珍しく、彼が彫刻を学んだ英国アカデミズムの強い影響が見て取れ、バタ臭い。そして労働者など市井の人々を主として描き、当時の西洋美術の流行でもあったプロレタリア的性格を持っていた。

画像は、上から「第2回帝国美術展覧会出品 遺された人達」絵葉書、1920年(大正9年)
次のメダルは、「第五回東西対抗陸上競技大会」参加賞メダル、1926年(大正15年)
そして、「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会 東京大会」メダルです。1940年(昭和15年)

今回、齋藤素巌を紹介したわけは、戦争を生き抜いた彫刻家のその後について興味を持ち調べ始めたからです。
齋藤素巌は、先に書いたように、戦時中軍部と密着した関係を持っていた日名子実三と共に「構造社」 を立ち上げています。日名子がその後国粋主義的な作風に流れる中で、齋藤素巌はその袂を分かちます。しかし、二人の関係が無くなったわけではなかったでしょう。そして終戦の年に日名子が亡くなったこと、齋藤はどう感じたのでしょうか。
齋藤素巌は戦後の官展で、「甦生(戦争・飢餓・甦生のうち)」1946年(第一回日展)、「武器を棄つ」 1947年(第二回日展)と反戦を明確にした作品を発表しています。
しかし、それ以前に比べると、戦後は極端に多くにメディアでの発言が減っています。
そんな齋藤素巌の戦争への思いを知りたいと思うようになりました。

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