2013年1月21日月曜日

第三部会彫塑部出品 池田勇八作「待令」 絵葉書


1940年(昭和15年)9月7日の読売新聞、夕刊の「海外文芸ニュース」欄に「大ドイツ芸術展覧会」の紹介記事が掲載されています。
この展覧会は、ヒトラーの指導の下に、美しく崇高で、健全かつ健康な芸術が国策として展開されました。
記事では、 第四回大ドイツ展覧会がミュンヘンで開かれ、彫刻絵画含め1397点、作家数758人が参加しているとあります。そして、彫刻家アルノー・ブレーカーのモニュメント、アドルフ・ワンバーの「勝利の天才」の群像、ヨーゼフ・トラツグの作品。建築では、オットー・アー・ヒルト。絵画はエルク・エーベル、フランツ・エルヒホストが紹介されています。
当時のドイツでは、巨大モニュメントが作成され、彫刻が大きく展開がなされていたのですが、それにたいする日本の彫刻界の反応がどうであったかと言えば、たいして興味がなかったと言えるでしょう。このヒトラー趣味の展覧会にたいして日本の彫刻家の言及がなされたことを僕は知りません。
というより、この同盟国の退廃美術への対応などを冷ややかに、批判的に見ていたようです。
それでも、この日本でも抽象絵画やアバンギャルド作品が影を潜め、この当時の新聞記事の言う、事変に対応した美術が展開されているのですが。
 そのように事変に対応した彫刻を標榜する日本の彫刻家グループが、上記に絵葉書にある第三部会です。
第三部会は小倉右一郎、日名子実三、石川確治らが参加する、反官展、反朝倉文夫として結成されたグループでしたが、後に国風彫塑会と改称し、その国粋主義的な性格を明確にします。

さて、この日の記事にはもう一つ美術について書かれた記事があります。
この「大ドイツ展覧会」の真下に書かれているのが、美術評論家「柳亮」による「新秋の彫刻評」です。
ここには、柳亮による辛辣な彫刻評が書かれています。曰く「ここでは、問題は、彫刻と建築という、二つの部門の技術的及び感覚的協同というかたちで提起されているが、両者間のジェネレーションの食い違いは決定的であり、日名子実三の「表忠塔」など、現代建築の今日到達している水準から押していくと、その構想の陳腐さが殆ど超批評的である。」「これは、従来他部門と没交渉で、孤立的に発達して来た社会の文化活動一般の罪であって、文化の綜合体制が要請されている現下の実際問題として反省を要するところだと思う。」としている。
たとえそれが国粋主義を標榜する作品であっても、しっかりと批評する姿がここにある。
当時の日名子実三は、国家と軍とに関わる彫刻家として何度も同新聞に(政治的に)好意的に紹介されていた作家であったのにもかかわらず。
そんな健全な美術評が当時はあったのだ。

たしかに国家と軍への批評は戦争が深まるにつれ不可能になりますが、ただ、国家と政治家は批評できても、美術と作家個人への批評など一片も書けない現在の新聞と表裏だと言えるのではないでしょうか。

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