2016年12月12日月曜日

朝倉文夫が受賞した賞状? 続報

SAKO様
ありがとうございます!
お許しをいただきましたので、前々回投稿しました「朝倉文夫が受賞した賞状? 」について、SAKO様から頂きましたコメントをご紹介いたします。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html

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『仁禮景範銅像の原型図案募集は、美校卒業生の田中雄一と在校生の朝倉文夫の2人が一等賞を受賞し、賞金は折半となったことが、当時の校友会月報で報じられています(『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』pp.347-348参照)。

アジア歴史資料センターのホームページで「3海将」で検索するすると、当時の三海将銅像関係の公文書がズラッと出てきますが、これらに眼を通すかぎり、やはり、仁禮銅像原型は、田中雄一と朝倉文夫の共作だと判断できます。

例えば、C11081409500「建設報告、及除幕式辞」の件に、〈故仁禮中将ノ銅像原型製作ハ田中雄一朝倉文夫両氏ニ嘱シ…〉とあります。

ただし、C11081409100「銅像原型製作、鋳造、参名考案等の件(3)」に気になる書類があります。明治40年11月付で、田中雄一が一年間志願兵として入営することになったので、仁禮銅像の制作を朝倉に引き継ぐ、作者は連名とする、とあります。

最初から共作でスタートしたのか、一人で担当していた田中から朝倉へ引き継がれたのか、もう少し史料を読みこむ必要がありますが、仕上げに至るまでの制作後半は、ほとんど朝倉が一人で行なったとみてよさそうです。

なお、田中雄一は戦前はそこそこ活動していた彫刻家です。
『人物と其勢力』という人名事典に略歴が載っています(299コマ)。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946316

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仁禮景範銅像は、田中雄一と朝倉文夫の共作だったようです。
また、制作に関しては朝倉文夫が担ったと言えそうです。

アジア歴史資料センターのホームページは以下
https://www.jacar.go.jp/

早速私も読んでみました!
その中の『銅像原型図案募集及賞金設定等
『応募者は粘土、油土、石膏、木彫等の模型を以って形容姿勢等を示すべし』とありますね。
やっぱり立体図での応募だったのですね。

それと、川村大将像の次席に畑正吉の名前があります。この時彼は24、5歳のはず。
表彰式には出席したのかな?

さて、ここで重要なのは、『銅像の図様は全身立体像のこと』とあることと、『顔面及び頭部には精密の工を要せず。別に写真によりて正確なる顔面または胸像模型を添うべし』
と、全身像と3海将本人に似せた胸像模型の2つを要求していることです。
そして、仁禮中将像の1等に、胸像の部で田中雄一、全身(立像)の部で朝倉文夫の名前があげられています。

 私のコレクションを見てみると…

『…其胸像第一等の選に當りたるを以て…』とあります。
つまりこれは、胸像部門における田中雄一に渡された賞状(のコピー)だと言えるでしょう。

全体の構成では朝倉文夫が、顔などの細部を田中雄一が担当する予定だったのかもしれませんね。
けれど、田中雄一が一年間志願兵として入営することとなったので、朝倉文夫が顔も含め制作したということかも。

それにつけても、朝倉文夫の回顧録に、この銅像の話題が出ても田中雄一の名前は一切出てこない。不思議だ?
朝倉文夫のプライドか、それとも制作の途中で田中雄一と何かあったのか…




2 件のコメント:

  1. 貴重な情報を楽しみにしています。
    明治39年は畑正吉が美校を卒業した年。その当時の下宿先が判って興味深いものがあります。

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  2. Hata様
    いつもお世話になっています。
    歴史にifはありませんが、もしこのコンペで畑正吉が1等を、朝倉文夫が2等であったならば、彫刻史は大きく変わっていたかも...等と想像してしまいます。

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