2016年12月5日月曜日

朝倉文夫が受賞した賞状?

私にとってはお宝ですが、他人にとってはど-でもいいもの。
今日は、そんなものを紹介します。


ファイルに入ったまま撮影しましたので、画像が悪くてスミマセン。
この賞状は、明治39年の海軍中将「仁禮景範」子爵のための銅像図案審査によって1等に与えられたものです。
金150円を受け取ったとありますが、それは現在の金額でおよそ150万円くらいだとか...
大金だ!

その海軍中将「仁禮景範」子爵ですが、明治33年に亡くなっています。
死後、東郷も含めた薩摩藩有志の手によって銅像設立がなされたのでしょう。
賞状には「西郷、川村 仁禮 三将銅像設立」とあるので、仁禮銅像と同じ海軍省に設置された西郷従道、川村純義も同時に公募されていたとわかります。
この銅像達は、全て昭和18年の金属回収令によって回収され、現在はありません。



上は、そんな仁禮銅像の絵葉書です。
絵葉書には、明治42年5月除幕、1丈2尺とあります。
図案が決定してから、3年ほどもかかっているんですね。

さて、問題は、その受賞者「田中雄一」ですが、史実では、「仁禮景範」銅像の作者はあの朝倉文夫ということになっています。
どういうことでしょう?
朝倉文夫の回顧録には、彼が美術学校3年生で23歳の頃、石川光明に誘われ、この公募に出したとあります。
つまり、学生で公募に出す資格の無かった朝倉が、「田中雄一」の名前で応募したのでしょうか?
昭和初期に発行された銅像写真集「偉人の俤」には、仁禮銅像の作者として二人の名前が列記されています。

この入賞によって、朝倉文夫の名前が一躍世に出ることになります。
除幕式では東郷平八郎らが居並び、朝倉は山本権兵衛にシャンパンを注いでもらったとか。

ちなみに西郷従道と川村純義は朝倉の先輩、本山白雲が制作しています。
当時の白雲は、銅像作製では第一等の人物であったわけで、そこに食い込んだ朝倉は、やはり早熟の天才だったのでしょうね。

こういった、楽しいことを色々想像させる賞状ですが、東郷の印がないことからも、実際は写しじゃないかなと考えています。
それはそれで、なぜ写しが出回ったのか?とか、オリジナルはどこにあるのか?などなど、妄想が膨らみます。

3 件のコメント:

  1. 仁禮景範銅像の原型図案募集は、美校卒業生の田中雄一と在校生の朝倉文夫の2人が一等賞を受賞し、賞金は折半となったことが、当時の校友会月報で報じられています(『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』pp.347-348参照)。

    アジア歴史資料センターのホームページで「3海将」で検索するすると、当時の三海将銅像関係の公文書がズラッと出てきますが、これらに眼を通すかぎり、やはり、仁禮銅像原型は、田中雄一と朝倉文夫の共作だと判断できます。
    例えば、C11081409500「建設報告、及除幕式辞」の件に、〈故仁禮中将ノ銅像原型製作ハ田中雄一朝倉文夫両氏ニ嘱シ…〉とあります。

    ただし、C11081409100「銅像原型製作、鋳造、参名考案等の件(3)」に気になる書類があります。明治40年11月付で、田中雄一が一年間志願兵として入営することになったので、仁禮銅像の制作を朝倉に引き継ぐ、作者は連名とする、とあります。

    最初から共作でスタートしたのか、一人で担当していた田中から朝倉へ引き継がれたのか、もう少し史料を読みこむ必要がありますが、仕上げに至るまでの制作後半は、ほとんど朝倉が一人で行なったとみてよさそうです。

    なお、田中雄一は戦前はそこそこ活動していた彫刻家です。
    『人物と其勢力』という人名事典に略歴が載っています(299コマ)。
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946316

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  2. いつも貴重な情報をありがとうございます!
    本当に重要なご指摘ですので、できましたら、コメント頂いた内容を本編に書き写して紹介したいのですが、如何でしょうか?

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