この時、戦時中のパラオがどんな状況だったかを、色んなメディアで放送されていました。
ペリリューの戦い
パラオは第一次世界大戦後に日本の委任統治領となり、1922年に南洋庁がコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となります。
戦前、そんなパラオを愛し、日本とパラオとの橋渡しをした彫刻家がいます。
それが、土方久功です。
土方久功は、1919(大正8)年に、東京美術学校彫塑科に入学、1929(昭和4)年にパラオに渡り、公学校の図工教員として彫刻を教えながら、同地の民俗学意的な調査を行います。
その後、南洋庁に勤務し、病で帰国するまで南洋の地で過ごします。
そんな土方久功の作品は、南洋の地の民芸的木彫のような野性味溢れる作品で、高村光太郎の目に止まり、広く紹介されるようになります。
終戦間近、昭和 19年には岐阜県可児市に疎開し、しばらく過ごします。
この可児市は私の地元でもあり、 そういったこともあって土方久功に興味を持ったというのもあります。
いつか手に入れたいと思っていた土方久功の作品が、思っていたよりも早く紹介できることとなりました!
土方久功 作 「一番小さな顔」です。1952年頃の作品なので、戦後のものですね。
顔が半分欠けていて、多分一度作ったもの指で押しつぶしたのではいかと思われます。
そういった欠けが、埴輪のような古物の雰囲気を持たせますね。
戦前のものでは、彼の作品を絵葉書にしたものがあります。
この絵葉書は南洋群島文化協会が発行したものです。
「日本のゴーギャン」と呼ばれた土方久功ですが、これらの絵を見ると、まぁしょうがない面もありますね。
親日国であるパラオですが、こういった人たちの個々の支えによって現在があるのですよね。
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