2023年5月22日月曜日

東京美術学校角力部記念賞 盃



東京美術学校角力部記念賞です。
わかり辛いですが、盃の底には「烏兎(うと)」が描かれています。
太陽の中に烏(からす)、月の中に兎(うさぎ)がいるという中国の伝説があり、「金烏玉兎(きんうぎょくと)」と言います。
これを略して「烏兎」です。
中心には「大正泰平」とあります。

側面には、「東京美術学校角力部記念賞」と、よく見えないのですが「1916年」と刻まれています。

東京美術学校の百年史には、1914(大正3)年に相撲部が発足したとあるので、その2年後の賞のようです。
他にも『石井鶴三の学生時代(明治38~43年)に相撲が非常に強くて、美校が学生相撲の雄となった。学生相撲大会の会場は両国の国技館で、応援団の奇想天外の有名な応援がなされた』とあります。
この歌と言うのが『相撲にゃ負けてもケガさえなけりゃ、晩に私が負けてやる』と踊りながら唄うのだそうで、『あんな歌を唄っちゃいかんと大村西崖生徒監から相撲部の応援部が大目玉』を食らったとか。

この牌、ものすごく手作り感のある作りで、学生たちが自身のために制作したのかもしれませんね。
若々しく蒼い魅力があります。

2023年5月8日月曜日

畑文夫編「彫刻と工芸の七十年 畑正吉」



彫刻家 畑正吉の残した言葉を紡ぎ、まとめられたのがこの「彫刻と工芸の七十年 畑正吉」です。
今後、近代彫刻史を語るうえで重要な文献になるでしょう。
編集されたのは、畑正吉の孫にあたる畑文夫氏です。(お世話になっております!)

畑正吉の仕事は、序で美術史家の森仁史氏が書かれたように、日本の近代化と寄り添い歩んみ、造形によって新しい「価値(それをモダニズムと言えるのかもしれませんが)」を広めようとされた事だと思っています。
それは所謂ソーシャルデザインであったと言えます。

しかし、その評価というのは、氏が「志を得られなかったデザイナー」と書かれたように、純粋美術との間に合って、黎明期のデザイナーであり、当時実現できた社会と畑の語る理想とに落差がありました。
しかし私は、その落差そのものが、実は現在とを繋げるもの、現代にあって語られるべきものではないかと考えています。

私はデザイン科出身で、20代の頃はデザインの仕事もしていました。
そこで体に覚えさせられたことは、デザインとはクライアントに求められて資本の拡大再生産の為に用いられる造形だと言う事。
利を求める「他者」の為にあるものだと。
たしかに、畑正吉には、その視線が抜けています。
あえて、目を向けなかったとも言えるでしょう。

特に現代はそれが「正しい事」と言われがちです。
ユニクロなどのファストファッション、スマホに出る広告、見栄え重視の図書館まで...

しかし、かつてデザインを含めた商業的なクリエイトには世界を変えようと言う意思がありました。
特に80年代、COMME des GARÇONSやヨウジヤマモト、セゾン文化やパルコ、無印良品。
例えば、アダルトビデオだってそうだった。(坂本龍一とかね)
世界的には、初期Twitterやアップルとスティーブジョブズ。

それらは遅れてきた左翼運動でもありました。
70年代に乗り遅れた、または反省した彼らの革命運動が、こういった「商業的なクリエイト」であったと言えます。

スティーブジョブズは正に、その資本力と技術とカリスマによって世界を革命しようと考えます。
しかし、その死によって革命の不可能性だけが世界に刻まれたようでした。
大災害にコロナ禍やウクライナ戦争によって、現在の私たちは特にそう感じるでしょう。

現代の「商業的なクリエイト」による革命運動とその挫折。
それは畑正吉の姿と重なりはしないでしょうか?
歴史は繰り返します。
その挫折の姿こそが、近代と現代を、畑正吉と現在とを繋げるものだと思うのです。
そういう視点で、畑正吉を語り伝えていきたいと考えています。

2023年5月6日土曜日

村山知義 述「演劇言論(Ⅱ)―社会主義的演劇の発展と唯物弁証法―」とポリコレ♥



マルチクリエイターのはしりである村山知義。
社会的規模の小さい中ではあるけれど、前衛、プロレタリア美術と彫刻、絵画、デザイン、イラスト、演劇、舞台、建築とを網羅しつつ「先」へと進もうとしたそのエネルギーが熱い。そしてウザい!
その熱いウザさを、演劇方面でまとめた本がこの「演劇言論(Ⅱ)―社会主義的演劇の発展と唯物弁証法―」です。

さて、この本では、まずは日本の社会主義的文化運動の黎明期から説明し始めます。
その内容が結構辛辣。どこまで本当か分かりませんでけど。
例えば
『「犠牲者」「カムチャッカ行き」を上演し、その演出をしたのが佐野碩で、プロレタリア演劇が大合同して左翼劇場ができて、弾圧がはじまるとすぐヨーロッパへ亡命した人です。この人は駿河台にあった佐野病院の院長さんの息子さんで、初期共産党の幹部であった佐野学の甥で、勢力のある親族もあり、お金もあったので、本当をいえば捕まるところだったんだけれども、当局に話をして、外国に行けば許してやるという条件で外国へ行った人です。ぼくなんかお金が無かったし、勢力のある親族もなかったので日本にいて捕まいましたけれど、その時外国に行けた人が佐野碩とか土方与志とか、ちょっと後になって千田是也などです。』
なんて書いてあります。
恨みがましい。

あと、面白いかったのが
『唯物弁証法的創造方法というのが社会主義的創造方法の前に芸術上の創造方法を支配」しているという記述で、その「唯物弁証法」をこう説明します。
『絶対的なものは存在しない、ものはすべて相対的である。永久のものは存在しない時間的である。固定し静止しているものは存在しない、常に流動し変改している』
これを「唯物弁証法」の基本思想だと言うのです。
それって「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」って事ですね。
つまり仏教における「無常」。
ただ、村山知義はその流れ続ける川が「進歩」していると考える。

その「進歩」の理由として『ヘーゲルの完成した観念論的弁証法が、唯物弁証法というものに発展してゆく」と西洋哲学の歴史を示し、『これを創ったのがまずフォイエルバッハであり、マルクスであり、エンゲルスであり、それをさらに発展させたのがレーニンであるということになります。』と。

西洋哲学(その裏にあるキリスト教)と仏教等を理由に「唯物弁証法」を正当化します。
信仰の「信じる」という姿から導かれた理論で正当化。
それって、それそのものが「信じる」からそうなんだって言っているのと変わらない。
「私はマルクスをエンゲルスを、レーニンを信仰していのだ!」って。

『人間は真実を追求し、真理のために何を尽くせるか、真理を守るために一生を捧げるという気になるものです。真理は人類全体の幸福にかかわったものだから、私という小さな一個の生命はそのためにささげようとなるはずのものです。社会主義全体では、みんなこういう気持ちになれる。』
オウムの麻原彰晃が、常に「真理」「真理」と述べてたような危うさがあります。


第二節はプロレタリア芸術史のまとめと社会主義リアリズムとは何か論

日本プロレタリア芸術史を簡単に要約すれば、
①ソビエトより「唯物弁証法的創作方法」の輸入
②福本イズムによって現実と離れた極左的化する
 ソビエトの「ラップ」も同様の誤謬を犯す
③昭和8年 社会主義リアリズム提唱
④満州事変直前、3.15や4.16で検挙され、人手が足りないところにオルグが入り込む
⑤村山知義と久保栄 社会主義リアリズム論争
とまとめます。

そして、社会主義リアリズムとは、先の「唯物弁証法」を信じたうえで、「資本主義は全て階級社会であり、階級間の戦い、矛盾によってより高度な社会主義社会を生みだす」という階級的歴史観に立って「現実」を見、その「現実」に対する「愛」として社会主義的「リアリズム」があると。

最後に「愛」という普遍的(に見える)もので「社会主義的」の土台とする姿は、なかなかやるな~と思います。
なんらかの「イズム」の信仰にはこういったものが必要でしょう。
そして、そんな社会主義リアリズムによって、日本だけでなく、ソ連や中国でも「愛ゆえに」内ゲバが起きたりするわけです。

昨今のポリコレとその批判も同じ歴史を歩んでいる様に見えませんか?
違いは、社会主義リアリズム論争がソ連や中国のような大きな権力で統一化されないことぐらいです。
だからなおさら、当時の日本の社会主義リアリズム論争のように、「何が正しいか」を彼らの内側だけで論じている。
もともと、「ポリティカル・コレクトネス」はソビエト連邦共産党の政策と原則の遵守を求める言葉が起源らしいですしね。

信仰と愛による「何が正しいか」のイズムによって他者を染めようという運動は、山岳ベースで自己批判されるべきだったと思う。
それができないのが人なのだとしても、超人にはなりえないとしても、そのあたりでウロウロする姿そのものを否定しないであるのが、「芸術」であって欲しい。
(でもそれってアートじゃないのよね)

2023年4月23日日曜日

直土會 第一回展覧会 建畠大夢 作「陸奥宗光」絵葉書


直土會は、1940(昭和15)年に建畠大夢によって組織された彫刻の会です。
彼は当時、東京美術学校の教授で、この直土會でも多くの後進を導いていたそうです。
しかし、その2年後、1942(昭和17)年に建畠大夢は亡くなります。

この直土會第一回展覧会では、「睦奥宗光」の他、建畠大夢による「井原氏の体」「井原氏の顔」が展示されます。
直土會の実像って、この当時のいくつかの会派と同様、よくわからないところが多くて、こういった絵葉書は貴重ですね~。

さて、この像は、よく見る陸奥宗光の横顔をモデルにされたと思われます。
それほど大きな作品ではないようです。
髭がきっちり鬢付けで固められていますね。
バッファローの角の様な口髭、それと顎鬚なんか、こうはならんだろって形で整えられています。
理想化なんでしょうか?

睦奥宗光は明治30年に亡くなっていますから、建畠大夢の人生と重なる部分はあったでしょう。
ただ、この大事な第一回展覧会で、彼の像を造ったと言うのは何か意味があるように感じますね。
1937(昭和12)には国会議事堂に朝倉文夫作「大隈重信」像、北村西望作「板垣退助」像、建畠大夢作「伊藤博文」像が設置されます。
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/03/blog-post_9.html
そこで抜けた英雄「睦奥宗光」を造ったのでしょうか?
陸奥宗光って、私にとっては漫画『お〜い!竜馬』の才気あふれる若者ってのイメージなんです。
第一回展覧会という最初の展覧会で、明治を生みだした英雄の像、その中でも先走る才能と変革を生みだした「睦奥宗光」を選んだのかも。
この時代、彼はどんなイメージを与えられていたのでしょうね。

2023年4月17日月曜日

日本家屋と「ロダンの考へる人」絵葉書


日本家屋内にある「ロダンの考へる人」絵葉書です。
この絵葉書からは、いつの頃の何の展示でこの「考へる人」が展示されているかわかりません。
わかるのは、これが戦前の絵葉書で、中サイズ程度の「考へる人」と、壁面にも額に入った作品が展示されているってことですね。

ロダンの「考へる人」が日本で初めて展示されたのは、1920(大正9)年に開催された再興第7回の院展だそうです。
その展示では、彫刻4点と素描66点が展示されたと聞きます。

もし、この絵葉書の展覧会がその頃の院展であるならば、竹之台陳列館で行われたということになりりそうですが、この絵葉書とは違う様な.....
座敷ですものね。
ただ、周りの額縁は、ロダンの素描の様な気もします。
ガラスケースに入った小品も見えますね。

さてさて、真相はなんでしょう?

2023年4月9日日曜日

彫刻家菊池一雄筆「彫刻家高村光太郎」原稿



彫刻家菊池一雄による高村光太郎論、直筆原稿です。

『彫刻の伝統の中に生まれた宿命的な著者(※高村光太郎)にとっては、日常生活もそしてその詩も、すべてが彫刻の世界である。』
『高村氏はまことに寡作の彫刻家である。或は人の目にふれる彫刻作品は、その詩よりも少ないかもしれない。しかし、それは彫刻に対する情熱の不足を示すものではない。むしろあり余る情熱に彫刻が溺れるのを怖れるのであり、その詩は彫刻を病熱から護る役目を背負っている。』

彫刻家による高村光太郎論によくある、高村光太郎って凄いんだぜ!論ですね~
高村光太郎の文章に薫陶を受けた彫刻家って皆、こういった語りの印象を受けません?
具体的に光太郎の重要性や個々の作品を語るのではなく、俺が凄いと思っているからそうなんだって文章。

この原稿では文字数少ないし、しかたがないのかもしれませんけどね。
(ちなみに世にある岡本太郎論も同じ印象)

高村光太郎の最後の作、十和田湖の「乙女の像」には、その建設委員に土方定一や草野心平の他、菊地一雄も加わっています。
彼らの推薦と協力が合って、あの腰の重い光太郎による「乙女の像」が1953(昭和28)年に建立されます。
この像は、向かい合う2体の裸婦像です。

また、菊池一雄の代表作に、1951(昭和26)年に日本電報通信社創立50周年記念事業碑として東京都千代田区隼町の三宅坂小公園内に設置された「平和の群像」があります。
「愛情」「理性」「意欲」をテーマとして原型を制作した3体の裸婦像です。

それぞれ2体と3体の裸婦群像。
年代としては、「平和の群像」が早いのですが、意識し合うことはなかったのかな?

2023年4月2日日曜日

改号紀念 渡南會作品目録 及び 趣旨會則


「改号紀念 渡南會作品目録 及び 趣旨會則」






「渡南」と改号した彫刻家による作品目録になります。
彼の実名は「長愛之」。
東京美術学校を明治32年に卒業した彫刻家です。
彼の作品と言えば、芸大にある昭和2年作「竹内久一先生」像。
同じく芸大には「島津義久」石膏像等が残ってますね。

この目録では、彼が1904(明治37)年に行われたセントルイス万国博覧会に出品した事、1903(明治36)年第五回内国博覧会において農商務省委託で庭前大噴水像を製作とあります。
これかしら?

この作家を研究されてる研究者さんっていますかね~
その方に届け!