2021年8月21日土曜日

新海竹太郎作 第十回文部省美術展覧会出品「龍樹」絵葉書

 


1916 (大正5)年、新海竹太郎制作の「龍樹」絵葉書です。
文部省美術展覧会出品作の絵葉書なのですが、なぜかアトリエでの写真となっています。
なぜでしょう?
わざわざアトリエを選んだのでしょうか?
それとも撮影までに作品が間に合わなかったのかな?

アトリエには新海竹太郎による作品が陳列されています。
「原人」の頭の部分だけもありますね。
他は何でしょう?上部のレリーフも気になります。

東京文化財研究所所蔵ので新海竹太郎資料を見ると、この「龍樹」と背景が同じ写真がありました。
https://www.tobunken.go.jp/materials/sinkai/27963.html
ただ1914年の作品なのですよね。
棚の配置がそのままだったのか、それとも「龍樹」撮影時にまとめて撮ったのでしょうか?
この「龍樹」絵葉書の原板も東京文化財研究所にあるようです。

さて、「龍樹」と言えば中観派の祖であり、空論を発展させた大乗仏教の創始者というイメージがあります。
それが新海竹太郎の手で表現されるとこういった厳しさを漂わせた立ち姿になるのは面白いですね。

2021年7月17日土曜日

中原悌二郎 「若きカフカス人」「憩える女」絵葉書




中原悌二郎による 「若きカフカス人」「憩える女」はどちらも1919(大正8)年の作です。
その2年後に悌二郎は没します。
この絵葉書は、そんな悌二郎の代表作を撮影したものになります。

この2体が揃ったのは、製昨年に行われた再興第6回院展です。
この時に撮影された写真を絵葉書にしたのでしょうか?
ただ、絵葉書の表面は無地で、販売元の名前もありません。
私のコレクションには、院展で販売されたであろうこの2体の絵葉書を所有していないので詳しくはわからないのですが、写真の撮り方からして正規の記録写真ではないような気もします。
特に「憩える女」ですが、正面から撮らず、背中のクローズアップがされていて、作品の記録以上の撮影者の意図を感じます。
この絵葉書が生まれた経緯が知りたいですね。

2021年7月5日月曜日

菊地鋳太郎 作「百合花ノ像本」


正面下に「菊地鋳太郎作 T.K.」のプレートが埋め込まれています。
石膏像制作販売のパイオニア菊地鋳太郎の石膏レリーフです。

菊地鋳太郎については、以前も紹介させて頂きました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/01/42.html

どうなんでしょう?
菊地鋳太郎作となってますが、菊地の石膏製作所の作ということなのでしょうか?
①輸入した原型をコピーしたもの
②工房作品
③菊地鋳太郎本人の作
のどれかなのかもしれません。

菊地鋳太郎本人の作ではないかもしれませんが、白い肌に「百合」の姿も相まって、美しい石膏像ですね。
以前、Twitterで常滑の陶業試作訓練所に所蔵されている菊地鋳太郎作の石膏像を見て、是非コレクションしたいと思っていました。
嬉しいです。


裏側には、「熊本県立第一所女学校」所蔵のラベルが残っています。
「熊本県立第一高等女学校」は現在の熊本県立第一高等学校になります。
大正10年から昭和22年までこの名称が使用されていたので、その時期に所蔵されていた物でしょう。

...それにしても女学校で「百合」とは...
女学生が集まって、このレリーフでデッサンなんかしてたのかなぁ~(妄想)

2021年6月21日月曜日

北村西望作「怒涛」絵葉書




1915(大正4)年に行われた第9回文展出品作、北村西望の「怒涛」絵葉書です。
 文部省買い上げとなる西望の出世作ですね。

最初の絵葉書は手彩色です。
どうやら持ち主が水彩で塗ったようですね。
青色で塗ってありますが、実際は石膏に濃緑で彩色されていました。
この彩色された石膏像は国立近代美術館に所蔵されており、先日の『コレクションによる小企画 男性彫刻』展で展示されましたね。

官展での石膏像の展示は初期からみられるものですが、彩色はいつ頃から始まったのでしょうか?
当時の彫刻家は、銅像色に彩色するための研究も行っていたようですね。
ただ、院展系の作家が行う木彫の彩色を否定する考えも当時からあったようで、彫刻の彩色問題は調べると面白そうです。

2枚目の絵葉書は、この「怒涛」への感想のようです。
「何とブリリと張り切った豊肉だろう―
 緑色の〇(棈?)の力の溢る〇過ぎし〇肉塊」
合ってますか??
ところどころ読めないので言葉の意味はよくわかりませんが、とにかく男の肉体への愛は伝わります。
ちんこも彫刻にあるような曖昧もっこりでなく描いてますし。

2021年6月17日木曜日

雨田禎之?「第25回明治大学陸上大運動会」メダル





1932(昭和7)年に行われた「第25回明治大学陸上大運動会」のメダルです。
雨田禎之作との事ですが、サインがよくわからないですね~

雨田光平(禎之)は、1911(明治44)年に東京美術学校の彫塑部彫刻科へ入学。
卒業後に渡米し、ここでハープを学び始め、さらにフランスへ渡り、日名子実三と出会います。
帰国後に構造社に参加し、彫刻家として活動します。

彼の2番目の妻は、我楽多宗開祖三田平凡寺の次女です。
その我楽多宗を紹介する展覧会が、今年の初めに多摩美で行われていました。
https://www2.tamabi.ac.jp/iaa/garakutashu_iaa_exhibition/

この展覧会を、夏目漱石と三田平凡寺の孫にあたる夏目房之介氏が紹介されていましたね。
雨田光平と三田平凡寺、そして雨田の義理の甥である夏目房之介氏の関係はこんな感じです。

        雨田光平(禎之)
         |
三田平凡寺―――次女 伊登
        末女 嘉米子
         |―――――夏目房之介
夏目漱石 ―――長男 純一

さて、メダルに話を戻します。
このメダルが雨田光平のものとすれば、1932(昭和7)年は帰国して3年後、若き彫刻家として活躍していた時期です。
翌年には帝展彫刻部門無審査となります。

描かれたのは、剣を握り二人の男を組み伏す荒神の姿です。
円形に三人(柱?)入れて、さらに動きもあって、この造形の上手さは流石ですね。
ただ、いつもの通り、この神話がなんなのかわかりません。
まったく勉強不足で申し訳ない!

2021年6月7日月曜日

斎藤素巌作「帝都復興記念碑」レリーフ




大正12(1923)年に起きた関東大震災からの帝都復興事業を記念して、昭和5(1930)年に帝都復興祭が行われます。
このレリーフの背面に「帝都復興記念碑」とあり、これを記念して製作されたものだと思われます。
かなりの薄い浮彫なので、実際はもっと大きなレリーフ状の記念碑として製作され、その縮小版なのかもしれません。

三連祭壇の形状からわかるように、斎藤素巌はこのレリーフを宗教画として描いたと考えられます。
その為、復興からの再生が描かれているのだと思うのですが…そのストーリーがよくわかりません。
右側は震災難民しょうか。左には彼らに寄り添う豊穣の女神(災害から実りをもたらした大宜都比売神?)が描かれているように思います。
では、中心の三人の男は何を示しているのでしょう?
真ん中の男は斎藤素巌による第六回明治神宮体育大会メダルと同じような構図ですね。
左に鍬を持つ男が描かれていることから、復興を成し遂げた労働者の姿ではないかと思います。
(そこに女性の姿がないのは現代のフェミニズム的に問題ですね…)
当時の人たちであればこの物語が読み解けるのでしょうか?

2021年5月31日月曜日

体育賞 陶製レリーフ


作者不詳のレリーフです。
銘はありますが、よく読めません。「金」でしょうか?

陶で制作されていることから昭和15~20頃と思われます。
明治神宮体育大会のメダルもその頃から銅以外の素材が使われました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2012/11/blog-post_6.html

モチーフはメストロウィッチ風の多重像で、スポーツ選手が描かれています。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2012/10/blog-post_25.html
3段と少なく、造形もそこまで達者ではありませんが、阿吽の様な左右の効果が面白く、結構気に入っています。