2014年7月6日日曜日

Intermission 明治大正/異端の科学 奇なるものへの挑戦

岐阜県博物館へ「明治大正/異端の科学 奇なるものへの挑戦」を観てきました。
チラシにもありますが、千里眼、念写、霊術、変態心理、メスメリズム...生命主義、ヒステリー、心理学、神秘主義...と、明治、大正時代に日本の近代化の影に表にとノイズのように現れた物事の数々をまとめ展示した、ものすごいマニアック且つ、僕としては大好物な展覧会でした。

この展示でも言われていたのですが、当時、こういったオカルトは教養の一部でした。
知識人にとっては、否定肯定関わらず、知識として共有していました。

現在、私達が当たり前の文化だと認識している日本の文学や科学や美術や音楽などは、この混迷の時代にオカルトと結ばれ、そしてそこからの派生としてあります。
しかし、日本近代文学史や美術史では、こういったオカルトは語られることはありません。

例えば、この展覧会でもデスマスク が展示されていた岡田虎二郎
彼の提唱した岡田式静座法は、修身によって心身を強健とするといったものでしたが、それを支持した新宿中村屋の相馬黒光らによって、多くの美術家にも信仰者がいました。
このデスマスクを作成した北村正信 もそうだったでしょうし、中村屋と親交があった中原悌二郎もそうでした。
中原悌二郎の彫刻作品のいくつかは、その思想下のものだと言えます。
彼は岡田虎二郎死後もその教えを守って薬を飲まず、結果自身の命も縮めることになりました。

ゴッホについて多くの著作を持つ式場隆三郎もまた、こういったオカルトを教養とし、自身も半分足を突っ込んでいただろうと思います。
よって、彼の見出した山下清や日本のアール・ブリュットなども、こういったオカルトを起源の一つにするものと言えるのではないでしょうか。

こういったものを正史として扱おうとするこの展覧会は、大変意義のあるものではないかと思います。
ただ、明治期からの日本近代宗教史、特に新興宗教について(一部、大本教についてはありましたが)を一緒に並べるととができれば、よりこの歴史に立体感がでるのではないでしょうか。
そしてオウム真理教までもその軸に入れることができれば...

2014年7月5日土曜日

広島高等師範学校・広島高等工業学校・広島高校 弁論部 「ロダン」風メダル


このメダルの裏側には、「広島高師(広島高等師範学校)、広島高工(広島高等工業学校)、広島高校 弁論部 1925年」とあります。
弁論部にロダンの「考える人」とは、なかなかな組み合わせですね。

荻原守衛がロダンの「考える人」に出会って、彫刻家への転身を決めたのが、1904(明治37)年。
高村光太郎が雑誌から「考える人」を見つけ出したのが、同年1904(明治37)年。
日本にロダンの作品を広く知らしめた『白樺 ロダン号』が発行されたのが、1910年(明治43)年。
高村光太郎による「ロダンの言葉」発行が、1916(大正5)年。
そして、1920(大正9)年には、、院展洋画部主催の「フランス現代美術展」に、日本で初めて「考える人」が展示されます。

つまり、1925(大正14)年に造られたこのメダルは、日本に「考える人」が展示されて5年後のものだということですね。
この頃には、 白樺や高村光太郎によって、ロダンの「考える人」は広く知られる作品となっていたのでしょう。特に師範学校の弁論部といった知識人の間では常識だったかもしれません。

でも悲しいかな、なんとも貧弱な「考える人」になってしまってますね!

2014年6月15日日曜日

九州沖縄八県連合美術展 絵葉書

下の老人の作品は、日名子実三作「廃墟」。この作品は、 1920(大正9)年の第二回帝展に入選した作品で、翌年の1921年、第14回九州沖縄八県連合共進会に出品されました。


つまり、九州沖縄八県連合美術展とは、九州沖縄八県連合共進会という博覧会のの美術部門であるようです。この展覧会には、九州と沖縄の作家、洋画、日本画、彫刻家を一堂に会して行われたようですね。

この「廃墟」ですが、師朝倉文夫の「墓守」と比べると、より西欧的でキリスト教的な物語を感じさせる姿ですね。くどいというか、バター風味?
しかし、そこが日名子実三の持ち味なんですよね。
こういった作風が日本の古典と結びついて、後の日名子の作品らとなるのでしょう。
この作品は、現在大分大学学術情報拠点(図書館)に展示されています。

上は、渡辺長男の乃木将軍像。
こちらのサイトで、当時の展示風景画が見られます。
ところで、弟である朝倉文夫は、この展覧会に出品しているのかな?




この博覧会、九州というより「沖縄」を含めた「日本」という国家を自覚させるという意義があったのかなと思います。
地方作家の展示というだけでは収まらない政治性があったのではないかと。
官展に地元の作家が入選すると、地元の街に日の丸が立った時代ですからね。
中央集権の為に美術があった時代なんでしょうね。
現在でも、地方の美術なんてことが言われます、美というのは常にヒエラルキーを背負っているものである以上、どこか頂点へと集権されてしまうのは致し方ないものなのでしょう。

2014年5月31日土曜日

板垣退助の銅像

5月21日が板垣退助の誕生日だとかで、高知市では、本日「板垣退助生誕祭」が行われているそうです。
地元岐阜にも、板垣退助と関係深い場所があり、今日はそこに行っていました。
そことは、岐阜城下、岐阜公園内にあります。
板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとされる「岐阜事件」の跡地であり、現在は板垣退助の銅像が建っています。




実はこの銅像、建立時と形状が違うんですね。
戦時の金属回収令で撤去され、後に再建したのだそうです。
では、大正6年の建立当時はどんな形だったか、当時の絵葉書を紹介します。


現在は、右手を上げ、左手に杖をついている状態ですが、戦前の銅像は、壇上で演説を行なっているかのような姿です。
戦前の方は、より自然で、リアリティーを感じさせる像になっています。、
顔つきも、現在より老けて見えますね。
その為か、より貫禄を感じます。
ただ、この台座を含め、背景になっている金華山の森が現在も変わりなくあって、ちょっと嬉しいですね。

この土佐の上士が、自由民権という不可思議な概念をもって政治を行おうと至ったわけが知りたいですね。彼の思想のベースはどういったものだったんだろう?

2014年5月22日木曜日

Intermission 軍事郵便




これらの絵は、戦時下で用いられた軍事郵便に描かれています。
当時、この絵を描いた子供らは、誰に送るつもりだったのかな?

2014年5月10日土曜日

Ottil.o Pecci 作 「生命の泉」 絵葉書


絵葉書には「ペシー氏」とありますが、Ottil.o Pecci(オッティリオ・ペッチ)が作家の名前だと思います。

この「ペシー氏」について、詳しいことを書かれたサイトがありました。
早稲田大学リポジトリ、論文等をネット上に公開するサイトのようです。
→こちら

これに書かれた「ペシー氏」の略歴をまとめてみます。
1897年イタリアのペルージャ生れ。
同地の美術学校で彫刻を学び、その仕事は、パリ、ロンドン、ニューヨークでも好評を博す。
パリで東洋美術の大学教授をし、1916(大正5)年、第一次世界大戦の戦乱を避けて高峰譲吉の息子エブレン夫妻と共に来日。
8年の滞在中に、幾つかの銅像を制作、展覧会を行い、そして日本女性オクムラ・ウラと結婚をする。
帰国後、1954(昭和29)年、死去。

絵葉書の作品は、1921(大正10)年に行われた第3回帝展の出品作ですので、来日してから5年後の作品ですね。
この彫刻家は大理石を用いた仕事を行なっていたようです。
また、政界財界に知人があり、早稲田の大隈重信胸像などの銅像をいくつか制作したようです。

この論文にもかかれてますが、彼が当時の日本の彫刻家たちとどう関わりをもったのか不明です。
来日したイタリアの彫刻家と言えば、1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導したラグーザが有名ですが、彼のように日本の彫刻史に名前の出ることのない「ペシー氏」は、どう日本の彫刻史に影響を与えたのでしょう?
もしかしたら、当時の日本の彫刻家にとって、彼の作はすでに古典だったのかもしれません。

 彼が帰国後、パリに滞在していたとして、第二次世界大戦時、そのパリに攻め込んだドイツと同盟を結んでいた日本に対し、どういった感情を抱いていたか気になります。

2014年5月4日日曜日

Intermission 横山潤之助作 「煙草を燻らす人」絵葉書


第九回二科展美術展覧会出品、横山潤之助作「煙草を燻らす人」の絵葉書です。
この横山潤之助とは、いったいどんな人か。
実は、僕の地元とも縁ある作家なんです。

簡単な略歴を紹介します。
○1903(明治36)年 東京都文京区にて、横山徳次郎 康子の二男として生まれる。
父、横山徳次郎は岐阜県羽島郡の庄屋の長男で、岐阜県立中学校の初代校長を勤めたこともある人物でした。

○1920(大正9)年 川端画学校へ入学し藤島武二の指導を受ける。
この頃、兄が亡くなり、父徳次郎より医師になるよう期待されるが、反発。東京美術学校の受験も失敗する。

○1922(大正11)年、第9回二科展に「煙草を燻らす人(50号)」、「静物」「海水浴」などを出品し、樗牛賞を受賞する。また、同展に「埋葬」を出品した古賀春江と親交を持つ。
また、中川紀元、神原秦に誘われ、「アクション造形美術展」に参加することとなる。
この時、横山潤之助、19才。

○前衛美術作家としてスタートした横山だったが、1927(昭和3)年、突然画風を変え、第九回帝展に出品をする。翌年から海外を外遊し、1930(昭和5)年帰国。「有名な画家になるよりはすぐれた諸庶民になる―」と制作からはなれる決意をする。

○1945(昭和20)年、自宅が空襲にあい、アトリエと3000点の作品とが焼失。
縁を頼り岐阜市日野の精神病院精神神経科で無給奉仕の生活を始める。

○1955(昭和30)年、岐阜県各務原市に転居、50代になり、横山は再び絵筆を持ち始める。
その作品は、岐阜の自然を描いたものだった。

○1971(昭和46)年 死去。68才であった。
その年、「横山潤之助作品集刊行委員会」がつくられ、翌年発行される。

ざっと略歴を見ただけでも、なかなかの難物だったのだろうと想像されます。
加藤稔著「幻の画家横山潤之助」によれば、神経衰弱状態になっていたこともあり、精神病状態であったのではと推測されています。
岐阜での生活では、東京での過去を見せることなく、社交性も薄れ、死亡した折には近隣者が誰も葬儀に参加しなかったと言います。

それにしても、この 「煙草を燻らす人」が19才の頃の作品だとは驚きです。