2014年12月31日水曜日
陽咸二 作「日米国際陸上競技大会」記念章メダル
今年最後に紹介するメダルは、陽咸二作「日米国際陸上競技大会」記念章です。
縦3.8cm×横2.3cm、「The International dual athletic meet U.S.A. VS Nippon Tokyo-Osaka」及び「2594」の記述あり。
皇紀2594年は西暦1934(昭和9)年、この年に東京では神宮外苑競技場で、「日米国際陸上競技大会」が行われました。
1941年の真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が始まる7年前に行われた日米両国の親善陸上競技大会。
陽咸二による、両国が硬く結ばれた姿の像は、その後の悲劇への皮肉のようですね。
彼の作品に「燈火抱擁像」という男女が溶け合ったような像がありますが、このメダルも似た手法で、人体をデフォルメ化しています。
その「燈火抱擁像」のイメージが強いのか、このメダルの像が、なんだかホモホモしく感じませんか?
第拾回構造社展出品「壮者」
遺作展となった第10回構造社展の出品作です。
エジプト風というか、ガンダーラ的というか、不思議な魅力を感じるこの彫刻ですが、「壮者(壮年の人。働き盛りの人)」というわりには、破棄や雄雄しさを感じさせない。
どこか柔らかく、女性的で、これもまたホモホモしい。
なんか「さぶ」系といういうより、「BL」っぽいんですよね。
まぁ、本気のBL好きからしたら、どう見えるのかわかりませんが、陽咸二の作品ってそう見えるんですよね。
というわけで、今年の最後はこんなネタで締めます。
2014年12月29日月曜日
作者不明 都新聞「裾模様募集出品記念章」メダル
作者不明のメダルです。
都新聞主催の「裾模様募集出品記念章」。
都新聞とは、明治から昭和にかけて東京で発行された大衆紙で、「都新聞」の号は1889(明治22)年から「東京新聞』となった1942(昭和17)年まで使用されています。
このメダルのデザインを見るに、艶かしい肉体の女神像でありながら、お顔は観音様という和洋折衷。
また、近代彫刻ではあまりない直接的なエロさなどから見て、前近代的な彫刻家による作品ではないかと思われます。
つまり、「都新聞」が使用された明治22年から昭和17年の間の初期に、このメダルが用いられたのではないかと推測します。
もしかしたら 「都新聞」より発行された「都の花」という文芸雑誌(1888年創刊―1893年)とのタイアップだったのかもしれません。
というのも「裾模様」とは和服の柄模様を指し、そういった文化に対しての評論を「都の花」では行われていたそうだからです。
それにしても、作家は誰だろう?
どこかでみたような図なのだけど、思い出せません。
新海竹太郎でもないし、山崎朝雲?
2014年12月21日日曜日
Intermission 「愛苑」 「’70 恍惚革命のゆくえ」座談会 加藤好弘 岩田信一
古書市で何となく買ってみた「愛苑」という'70年代のサブカル雑誌に 「’70 恍惚革命のゆくえ」として、ゼロ次元の加藤好弘、岩田信一、そして、映像作家の金坂健二、岡部道男、金井勝、作家のまさのり・おおえ、高橋鐵による座談会が載っていました。
この「愛苑」は、特集が「背交態位正位論」「現代女性放尿論」と、まぁこういった質が高くてバカバカしい素敵なエロの雑誌ですね。
さて、この座談会ですがが、「幻覚世代を背負う旗手たちの大論戦」と銘打っているわりには、論戦というより居酒屋会議で、特に何かにたいして議論しているというものでもなく、互いにマウンティング(動物が優位性を誇示するための行為)をしているだけにも思えます。
加藤好弘 「きょう岩田が名古屋から新宿の駅へ来た。いきなり、靴が汚れているといって岩田先生はポリにひっつかまっちゃったわけ...」「天才を見てコンプレックスを持っちゃって、靴が汚いからといって三人がかりで連れていった」
岩田信一「そういて交番の中へ入ったとたんに衿がみをつかんで、てめえなまいきだときた。」
こういったものを含め、当時の空気がわかって、そこは読んでて楽しい。
文中で使われている「万博破壊共闘派」はわかるのだけど、「草月フェスティバルの事件」は、1969年の開催当日に造反グループの乱入した事件のことかな?
「六本木少年団」ってなんだろう?
この「愛苑」は、特集が「背交態位正位論」「現代女性放尿論」と、まぁこういった質が高くてバカバカしい素敵なエロの雑誌ですね。
さて、この座談会ですがが、「幻覚世代を背負う旗手たちの大論戦」と銘打っているわりには、論戦というより居酒屋会議で、特に何かにたいして議論しているというものでもなく、互いにマウンティング(動物が優位性を誇示するための行為)をしているだけにも思えます。
加藤好弘 「きょう岩田が名古屋から新宿の駅へ来た。いきなり、靴が汚れているといって岩田先生はポリにひっつかまっちゃったわけ...」「天才を見てコンプレックスを持っちゃって、靴が汚いからといって三人がかりで連れていった」
岩田信一「そういて交番の中へ入ったとたんに衿がみをつかんで、てめえなまいきだときた。」
こういったものを含め、当時の空気がわかって、そこは読んでて楽しい。
文中で使われている「万博破壊共闘派」はわかるのだけど、「草月フェスティバルの事件」は、1969年の開催当日に造反グループの乱入した事件のことかな?
「六本木少年団」ってなんだろう?
2014年、現代となっては、個々人の拠となるべき体験、「恍惚」や「快楽」までもが相対化され、彼らが熱く語る世界に対しての個の立脚という姿に、強い魅力を持てなくなっている。
ちんこを出して走り回ったところで、社会的良識からではなく、迷惑だからという各々の望みから、軽犯罪として社会に受け入れられてしまう。
それはそれで正しく住みやすい社会なんだろうけど...
2014年12月7日日曜日
野村公雄 作 「男と女」 第拾弐回構造社展覧会出品
野村公雄は、1907(明治40)年東京生まれ、東京美術学校彫刻科塑像部選科卒。
同時期に東京歯科医学専門学校も卒業という変わった経歴の持ち主。
齋藤素巌に師事し、レリーフを多く作成する。しかし、戦後は殆ど制作を行わず、家業の歯科医を続けた。
絵葉書の作品は、第拾弐回構造社展への出品作品です。
この展覧会は1939(昭和14)年に行われました。
1939年はナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻を行い、第二次世界大戦勃発した年です。
日本においては、ノモンハン事件が起きた年であり、陸軍美術協会が発足、「聖戦美術展」が行われます。
そんな時勢でのこの作品は、非常に前衛的であり、アグレッシブ。
この手跡が、作品のもつ構造、構成に目を向けさせ、ジャコメッティのように人間の姿そのものを描こうとする作家の意思を感じさせます。
戦前、そんな作品を残した野村公雄ですが、戦後筆を置いたのにはどんな理由からなのでしょうか?
彼は戦時における統制によって、1944(昭和19)年、構造社を代表して解散届けを出しています。
こうしたことを行なった自身にたいして思うところがあったのでしょうか?
また、戦前彼が実験し、制作したような作品が、戦後になって前衛として受け入れられていく様子を見て 、どう感じていたのでしょう?
「戦争がなければ...」そう考えていたのでしょうか?
2014年12月6日土曜日
「皇后陛下○○馬遊び玩具」絵葉書
こども博覧会に、巌谷小波によって出品された「皇后陛下○○馬遊び玩具」の絵葉書です。
この絵葉書の裏に「こども博覧会事務局発行」と書かれていることから、この博覧会は、1926(大正15)年に行われた「皇孫御誕生記念こども博覧会」だと考えられます。
皇孫照宮成子内親王殿下の御誕生記念として開かれたこの展覧会は、古今東西の各玩を展示し、また百貨店による子供のための部屋や道具の展示、パビリオンなどによって、当時における新時代の子供の像を表しました。
このカタログが近代デジタルライブラリー で閲覧できるようです。
上記の絵葉書の作品も見ることができます。
作品の出品者、巌谷小波(いわや さざなみ)は、児童文学者でお伽噺「桃太郎」や「花咲爺」などをまとめ再制作した人物です。
この作家の所有品だったのが、貞明皇后が遊ばれたというこの玩具。
素材は象牙のようです。
貞明皇后の子供時代である明治初期は、象牙による輸出用作品が大ブームであり、この玩具もそういったものだったのでしょう。
それにしても象牙が玩具とは...
この作品の作者名は不明です。
象牙作家と言えば、石川光明や旭玉山等があげられますが、どうでしょうか?
2014年11月29日土曜日
高村光太郎 作「高村光雲先生」像 絵葉書
どうもこの高村光太郎というめんどくさい人物は、写真によって自作が介されることを好んでなかったような気がします。
昭和9年に発行された「総合美術研究」という本では、光太郎が自作を説明紹介しているのですが、「S君の胸像」に「細かい技巧については、やはり寫眞では説明のしやうがありません」と言い「黄瀛先生の首」では「面の関係などは寫眞では説明しかねますから述べません」と言わなくてもいいことを言う。
まぁ、それが光太郎という人物なのだろうけれど。
昭和20年の空襲によるアトリエの火災で、多くの作品を焼失した光太郎でしたが、いくつかの作品は写真に撮って残していたようです。
だけど、展覧会などの出品拒否していた彼の作品が絵葉書として世に出ることは少なかったでしょう。
この絵葉書にある「高村光雲先生」像は、昭和10年、高村光太郎が53歳の時、父光雲の一周忌記念として制作された作品です。
現在、東京芸大にその銅像が建てられ残っていますね。
この絵葉書がどうして発行されたのかわかりませんが。その記念の一部だったのでしょうか?
この作品について、光太郎自身がこう語っています。
「父の胸像はその後一二度小さなのを作った事があり、死後更に決定版的に一つ作った。
これは昭和十年の一周忌に作り上げた。
今上野の美術学校の前庭に立って いる。
この肖像には私の中にあるゴチック的精神と従ってゴチック的表現とがともかくも存在すると思っている。
肩や胸部を大きく作らなかったのは鋳造費用の都合からの事であり、彫刻上の意味からではない。
亡父の事を人はよく容貌魁偉というが、どちらかというと派手で、大きくて、厚肉で、俗な分子が相当あり、なかなか扱いにくい首である。
私は父の中にある一ばん精神的なものを表現する事につとめたつもりである。」
ゴシック的な派手で俗な見かけの中にある高村光雲の精神性を表したというのだ。
それはわかるのだけど、だいたい息子が父親の像を造るっていうのに一抹の気持ち悪さを感じます。
父親と息子の関係というのは、ある程度の距離があるものだと思うのだけど、光太郎は嫌だ嫌だと言いつつ父親から離れられない。
たしか、フランス留学時代に不安定な心の拠として父の像を造ったりしていたはずだ。
おかしいよね、ソレ。
2014年11月24日月曜日
陽咸二 作 紀元二千六百年奉祝美術展覧会出品 メダルの絵葉書
陽咸二によるメダルの原型です。
絵葉書の裏側には、紀元二千六百年奉祝美術展覧会とあります。
「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」は、1940(昭和15)年に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った展覧会であり、官展として行われました。
ただ、陽咸二は、昭和10年に亡くなっているので、この展覧会には自身で出品しているわけではないでしょう。
この展覧会の委員を勤めた齋藤素巌の推薦なのかもしれません。
戦前、陽咸二の亡くなった後に出品された展覧会は、1937(昭和14)年に行われた「明治・大正・昭和三聖代名作美術展」と構造社美術展くらいだと思っていたので、この絵葉書は発見でした。
また、このメダル原型は、バーレット連盟推薦賞メダルとして使用されているようです。
図柄は、何か神話がモチーフになっているようなのですが、なんだろう?
2014年11月23日日曜日
構造社 絵葉書
下の絵葉書はその一部で、 構造社の絵葉書が第2回展覧会から第14回までを含め60枚ほど手に入りました。
このブログで、少しづつ紹介していく予定です。
まずは、第4回構造社美術展覧会出品、中牟田三治郎作「きつね」。
以前、 中牟田三治郎の略歴については紹介しましたね。
略歴を読まれた方はお気づきでしょうが、1930(昭和5)年に行われたこの展覧会時には中牟田三治は亡くなっています。
第4回構造社美術展覧会は、中牟田三治郎の遺作展でもあり、彼の作品43点が特別展示されます。
この「きつね」も前年の第3回展で秩父宮家に買上げとなりましたが、借りられたのか、特別に再展示となったようです。
そのため、この絵葉書でも作家名に「故」と記入されています。
現在、この作品は宮内庁の収蔵となっています。
この作品も第4回構造社美術展覧会出品、河村目呂二作「接吻」。
河村目呂二は地元岐阜出身の彫刻家...というより彫刻も行う趣味人で、猫を愛し、この作品も猫を抱く女性像です。
この作家については、かなり面白い人物でもあり、こうやってまとめて紹介するのはもったいないので、どこかで詳しく紹介したいと思います。
そして、以前から何度も紹介しています陽咸二の作品です。
第2回構造社美術展覧会出品、「コンポジション」。
この作品は「立てひざの女」と呼ばれ、現在そのブロンズが東御市梅野記念絵画館にあるようです。
この展示時は石膏のようなので、後にブロンズにしたのでしょう。
2014年11月9日日曜日
作者不明のメダル
このメダルの裏面には「1929(年) 東京写真専門学校 春季競技会」とあります。
東京写真専門学校とは、現東京工芸大学です。
この「東京写真専門学校」の名称は1926年(大正15年 昭和元年)~1944年(昭和19年)まで用いられたとのことですので、メダルの使用時期と合致します。
この「東京写真専門学校」は小西写真専門学校として設立したそうです。
「小西」とは、当時の小西六写真工業、現コニカミノルタを指し、6代目社長杉浦六右衛門によって創設されたことを意味します。
東京工芸大学は、写真という当時の最新メディアを学ぶ学校としてスタートしたんですね。
以前、同じく小西六(現コニカ)のメダルとして、荻島安二による作品を紹介しました。
今回紹介したメダルには「RYOTAROW」と銘がありますが、この作者が誰なのかわかっていません。
荻島安二ばりのモダンな女性像なのですが、いったい誰の作でしょう?
彫刻家というより画家的な感性を感じますが...
わかり次第、また紹介したいと思います。
2014年10月26日日曜日
Intermission 桜新地遊郭 手書き地図
大阪は天神さん古本市で手に入れたものの一つで、今回一番の出物だと考えるものです。
和紙に描かれた手描きの地図。
示された場所は「桜新地遊郭」です。
桜新地遊郭は、現在の大阪府枚方市にありました。
枚方公園駅周辺がそうらしいのですが、この地図もその辺りではないかと思われます。
明治にはあったと言われるこの遊郭ですが、この地図がいつの頃のものなのかは不明です。
実は、この地図は先に「多木久米次郎 直筆 」 で紹介しましたドイツの本に挟まれていたものです。
この地図目当てで買ったと言っても過言ではなく、数百円を払うときはドキドキしましたね...
なんの為の地図なのかもわかりませんが、この分野は私より詳しい人や先行研究もあるでしょうし、 気長に情報収集していこうと思っています。
それにしても、凄くお洒落な図なので、できたら額に入れようかな。
和紙に描かれた手描きの地図。
示された場所は「桜新地遊郭」です。
桜新地遊郭は、現在の大阪府枚方市にありました。
枚方公園駅周辺がそうらしいのですが、この地図もその辺りではないかと思われます。
明治にはあったと言われるこの遊郭ですが、この地図がいつの頃のものなのかは不明です。
実は、この地図は先に「多木久米次郎 直筆 」 で紹介しましたドイツの本に挟まれていたものです。
この地図目当てで買ったと言っても過言ではなく、数百円を払うときはドキドキしましたね...
なんの為の地図なのかもわかりませんが、この分野は私より詳しい人や先行研究もあるでしょうし、 気長に情報収集していこうと思っています。
それにしても、凄くお洒落な図なので、できたら額に入れようかな。
2014年10月19日日曜日
Hans Schellhorn 作 「Sinnbild der Funkeinheit」
2014年10月15日水曜日
Intermission 多木久米次郎 直筆
大阪は「天神さん古本まつり」で安く手に入れた本の一冊です。
戦前のベルリンの風景写真集のようですが、その最後のページに直筆文が。
正直、読めないのですが、その前ページに筆者の銘が書かれています。
「多木久米次郎」とあります。
多木久米次郎は現、多木化学株式会社の初代社長で、化学肥料の分野で日本の農業に大きな影響を与えた人物のようです。
衆議院議員を勤め、第二十八議会衆議院議員写真列伝 には、「明治41年欧米浪漫より帰朝」とあるので、その時持ち帰った本なのかもしれません。
こういうものが落ちてるから古書市は面白いのですが、この本に関しては私より必要としてる方がいるような気がします。
個人というより公共の図書館とか博物館とか、 そういった関係の方でご興味あるかたにお譲りすることもやぶさかではありません。
そういう方がいらっしゃいましたら、コメント欄にコメント下さい。
衆議院議員を勤め、第二十八議会衆議院議員写真列伝 には、「明治41年欧米浪漫より帰朝」とあるので、その時持ち帰った本なのかもしれません。
こういうものが落ちてるから古書市は面白いのですが、この本に関しては私より必要としてる方がいるような気がします。
個人というより公共の図書館とか博物館とか、 そういった関係の方でご興味あるかたにお譲りすることもやぶさかではありません。
そういう方がいらっしゃいましたら、コメント欄にコメント下さい。
2014年10月13日月曜日
Intermission 岡山―大阪へ行ってきました。
岡山は市原市、井原市立田中美術館へ「ジャパニーズ・ヴィーナス―彫刻家・藤井浩祐の世界」展に行ってきました。
以前、藤井浩祐について当時の作家陣の中では保守的に感じると書きましたが、今回、彼の作品をまとめて見ることができ、若干違う印象を持ちました。
それは、「私の方が彼の作品をスタンダードだと見ている。」ということでした。
この時代の彫刻家の仕事とは、西洋からの輸入された彫塑という文化をどう日本に根付かせるかという全く新しい取組みです。
であるならば、当時において彫塑のスタンダードなどないはずなのに、私は彼の作品をそう見てしまう。
それは、現在、つまり後世からの視点からそう見えるのでしょう。
つまり、 日本彫塑史において、藤井浩祐の作品は常にその中心、王道であったのだと言うことなのだと気づきました。
朝倉文夫や北村西望のようなはみ出す個性を求めず、新海竹太郎らの「浮世彫刻」などを試みながらも、ただまっすぐ、現在から眺められる日本彫塑史の真ん中を「彫刻」とは何かを求めながら走ってきた作家なのではないか、そう考え直しました。
いや、それにしても見ごたえのある展覧会でした。
一日中居られそうでしたね。
ちょっとした興味から探索し始めた日本近代彫刻でしたが、実際この時代の作品が心底好きになっていたのだと確認させられました。
次は、東京の小平市平櫛田中彫刻美術へ巡回するそうです。
それと、この市原町も素敵な場所でした。
JRから井原鉄道に乗り込み、神話の時代の名前のような駅をいくつか越えたところにありまして、山と水と、水辺の植物、そして水鳥が多く見られる場所でした。
地元岐阜の切り立った崖を流れる川のとはちょっと違う生態系に感じましたね。
そんなゆったりとした気分のまま、大阪へ。
げっ、いまだに歩きタバコの人がいるんだね大阪。
気を取り直して今回の目的は「天神さんの古本まつり」。
台風のために一日短縮された古書まつりでしたが、そのためにまだまだ大量の百均本がどっさりありました。ヤッター。
その山の中から森口多里著「近代美術十二講」(大正13年11版)。
ダダや未来派など新興美術を紹介する本で、ブランクーシやザッキン、アーキペンコについても書かれています。
この本は既に持っているのだけど、読み返してみたら独逸表現主義の芸術家としてデゴバルト・ペッシュが紹介されてましたね。以前この作家について書いた時は思い出せなかった。
それと、何故か昭和30年の大阪市立汎愛高等学校の文化祭プログラムが挟まっていました。
後、 「近代美術十二講」にも言及されていた映画「カリガリ博士」について同じく言及していた美術手帳(1980年)の「回想の20年代」。プロレタリア美術について書かれています。
その一味の神原泰著「ピカソ」(大正14年)、その流れを組んでるのかどうか知りませんが吉本隆明著「高村光太郎」(昭和48年)とあと何冊か...
「カリガリ博士」もYouTubeで観れるんだね、凄い時代だね。
それと、この古書市と古本屋を廻って絵葉書を漁る。
○米原雲海 「松風」 (文部省第九回美術展)
○齋藤素巌 「日は昇る」 (紀元二千六百年奉祝美術展)
○日名子実三 「踊」 (第五回帝国美術院展覧会)
○水谷鉄也 「秀作」 「国際美術協会第二回内国美術展覧会」
水谷鉄也は、「大阪府立中之島図書館 大正11年増築記念のメダル 」でご指摘いただいた作家ですね。高村光太郎と同期のようです。
他にも面白いモノを探し出しましたが、それはおいおい...
以前、藤井浩祐について当時の作家陣の中では保守的に感じると書きましたが、今回、彼の作品をまとめて見ることができ、若干違う印象を持ちました。
それは、「私の方が彼の作品をスタンダードだと見ている。」ということでした。
この時代の彫刻家の仕事とは、西洋からの輸入された彫塑という文化をどう日本に根付かせるかという全く新しい取組みです。
であるならば、当時において彫塑のスタンダードなどないはずなのに、私は彼の作品をそう見てしまう。
それは、現在、つまり後世からの視点からそう見えるのでしょう。
つまり、 日本彫塑史において、藤井浩祐の作品は常にその中心、王道であったのだと言うことなのだと気づきました。
朝倉文夫や北村西望のようなはみ出す個性を求めず、新海竹太郎らの「浮世彫刻」などを試みながらも、ただまっすぐ、現在から眺められる日本彫塑史の真ん中を「彫刻」とは何かを求めながら走ってきた作家なのではないか、そう考え直しました。
いや、それにしても見ごたえのある展覧会でした。
一日中居られそうでしたね。
ちょっとした興味から探索し始めた日本近代彫刻でしたが、実際この時代の作品が心底好きになっていたのだと確認させられました。
次は、東京の小平市平櫛田中彫刻美術へ巡回するそうです。
それと、この市原町も素敵な場所でした。
JRから井原鉄道に乗り込み、神話の時代の名前のような駅をいくつか越えたところにありまして、山と水と、水辺の植物、そして水鳥が多く見られる場所でした。
地元岐阜の切り立った崖を流れる川のとはちょっと違う生態系に感じましたね。
そんなゆったりとした気分のまま、大阪へ。
げっ、いまだに歩きタバコの人がいるんだね大阪。
気を取り直して今回の目的は「天神さんの古本まつり」。
台風のために一日短縮された古書まつりでしたが、そのためにまだまだ大量の百均本がどっさりありました。ヤッター。
その山の中から森口多里著「近代美術十二講」(大正13年11版)。
ダダや未来派など新興美術を紹介する本で、ブランクーシやザッキン、アーキペンコについても書かれています。
この本は既に持っているのだけど、読み返してみたら独逸表現主義の芸術家としてデゴバルト・ペッシュが紹介されてましたね。以前この作家について書いた時は思い出せなかった。
それと、何故か昭和30年の大阪市立汎愛高等学校の文化祭プログラムが挟まっていました。
後、 「近代美術十二講」にも言及されていた映画「カリガリ博士」について同じく言及していた美術手帳(1980年)の「回想の20年代」。プロレタリア美術について書かれています。
その一味の神原泰著「ピカソ」(大正14年)、その流れを組んでるのかどうか知りませんが吉本隆明著「高村光太郎」(昭和48年)とあと何冊か...
「カリガリ博士」もYouTubeで観れるんだね、凄い時代だね。
それと、この古書市と古本屋を廻って絵葉書を漁る。
○米原雲海 「松風」 (文部省第九回美術展)
○齋藤素巌 「日は昇る」 (紀元二千六百年奉祝美術展)
○日名子実三 「踊」 (第五回帝国美術院展覧会)
○水谷鉄也 「秀作」 「国際美術協会第二回内国美術展覧会」
水谷鉄也は、「大阪府立中之島図書館 大正11年増築記念のメダル 」でご指摘いただいた作家ですね。高村光太郎と同期のようです。
他にも面白いモノを探し出しましたが、それはおいおい...
2014年10月4日土曜日
彫刻家の著作
画像は、橋本平八著「純粋彫刻論」(昭和17年発行)です。
大正から昭和初期には、彫刻家の所謂彫刻ハウツー本が幾つか発売されます。
その理由は、一方で彫刻家自身が彫刻という仕事について多くに人に知らしめたく想い、他方で東京以外の地方の人々が彫刻について学びたいという希望があり、その上で本の出版技術が向上したからだと思われます。
画像で紹介した橋本平八著「純粋彫刻論」は異色の彫刻本ですが、他には
○藤井浩佑著「彫刻を試る人へ」(大正12)
○木村五郎著「木彫の技法」(大正15) 「木彫作程」(昭和8)
○長谷川栄作「彫塑の手ほどき」(昭和6)
彫刻だけでなく美術一般を啓蒙するハウツー本で「綜合美術研究(No.1~9)」(昭和8~9)や、石膏取りの方法を教える横田常吉著、黒岩淡哉校閲「誰にも出来る粘土細工と石膏細工」(昭和3)なんていう本も発行されています。
また、こういった本の中で、当時なによりも影響を与えただろう高村光太郎の「ロダンの言葉」「続ロダンの言葉」、そして彼の一連の著作。またハウツー以外にも石井鶴三の「凸凹のおばけ」(昭和13)なんてもあります。
以上は、私の蔵書ですが、他にも藤井浩佑の「犬通(いぬつう)」といった彫刻だけでない本まで発行されているんですね。
現在のように、ネットで誰もが発言でき、それが残っていく時代と異なり、こういった本は当時の彫刻家が何を考え作品を残していったのかがわかる貴重な資料ですね。
2014年9月20日土曜日
齋藤素巌 原型 「第6回日米対抗水上競技大会」メダル
「日米対抗水上競技大会」は戦前から行われていた水泳大会です。
以前、この第一回大会のメダル(日名子実三作)を紹介しました。
終戦後、 1950(昭和25)年にこの競技大会が、第3回日米対抗水上競技大会として再興されます。
そして、1955(昭和30)年には、第4回日米対抗水上競技大会が、1959(昭和34)年には第5回日米対抗水上競技大会が行われました。
このメダルは、1963(昭和38)年に行われた「第6回日米対抗水上競技大会」のものです。
ただし、この齋藤素巌による図柄は、これ以前の大会にも用いられているようです。
それが戦前かどうかは不明です。
彼は昭和49年に84才で亡くなっていることから、 その10年前のこの大会のために、かつての作品の使用の許可をしたのかもしれませんね。
それにしても、このシュールな図柄に用いられてい魚はなんでしょう?
齋藤素巌は、このハゼのような古代魚のような魚を好んでモチーフにしていたようですね。
2014年9月6日土曜日
日名子実三 作「第11回関東大学専門学校選手権競技大会」メダル
久しぶりに日名子実三によるメダルの紹介です。
「第11回関東大学専門学校選手権競技大会」メダルです。
第11回大会は昭和8年に行われました。
また、この図柄は、第10回大会でも使用されているようです。
この円盤投げというモチーフは、古代ローマの作品が残されており、大英博物館の円盤投げ(ディスコボロス)が有名です。
日名子もこれを意識しなかったわけはないでしょう。
競技大会のいくつかある種目から円盤投げを選んだのは、そういった思いもあったからなのでしょうね。
そのためなのか、ギリシャ、ローマの彫刻が見上げる作品であるのと反対に、この日名子の円盤投げが見下げる構図になっています。
その結果、当時の競技会場であった明治神宮外苑競技場において、円盤投げの選手を観客の視点で見るような図になっており、よりリアリティーを感じる構図になっています。
当時の彫刻家が作品を制作する場合、モデルを用いていました。
このメダルを制作した時も、日名子はモデルを用いていたと考えられます。
しかし、このような俯瞰した視点にするために、日名子はどんな方法をとったのでしょうか。
もしかして高座で制作したのか、このデザイン(構図)のために高座からデッサンを行なったのか。
それとも報道写真なんかを参考にしたのか。それとも...
2014年8月30日土曜日
中牟田三治郎 作「秩父宮殿下台臨記念 京都帝国大学学友会」メダル
中牟田三治郎(ナカムタ ミチロウ)は、戦前、中原悌二郎や橋本平八のように、若くして亡くなった彫刻家の一人です。
彼は、1930(昭和5)年、38才で亡くなりました。
そのため、生前にその力を認められながらも、日本の彫刻史において、殆ど語られることのない作家の一人です。
中牟田三治郎は、1892(明治25)年、福岡生れ、19才で上京し、武石弘三郎に師事します。
1916(大正5)年に東京美術学校彫刻家塑像部に入学、白井雨山に学びます。
1922(大正11)年に京都帝国大学工学部建築学科彫塑実習第1部の講師となります。
1924(大正13年)には帝展に「或る日頃」を出品、1927(昭和2)年に構造社に参加します。
この「秩父宮殿下台臨記念 京都帝国大学学友会」メダルは、京都帝国大学工学部の講師だったことで制作依頼が来たのでしょう。
中牟田三治郎は、昭和4年に「きつね」という作品が秩父宮家に収蔵されています。(現在は宮内庁三の丸尚蔵館が収蔵)
これも、このメダルの縁なのでしょうか。
彼は、ドイツ表現主義に影響を受けたと言います。
このメダルの造形もその影響を感じさせます。
以前こんなことを書きましたが、彼もまた、日本表現主義彫刻のミッシング・リングを繋げる作家なのかもしれません。
そういえば、 三の丸尚蔵館に新館ができるとか。
「きつね」も展示されると嬉しいですね。
2014年8月15日金曜日
Intermission 藤田嗣治画 郵便貯金百億円記念 絵葉書
今日という日にどんな作品を紹介しようかと考えまして、藤田嗣治による「郵便貯金百億円記念」絵葉書にしました。
この絵葉書は、皇紀2602年(1942(昭和17年))に発売されてもののようです。
他に川端龍子によるものもあるようです。
藤田嗣治の絵画というよりイラストですね。
サイズの合わない軍服を仕立て直した服を着た男子が、日の丸に百億と書かれた凧を持ち、富士山と戦闘機をバックに立っています。
一枚の絵に多くの情報を詰め込むのは藤田らしいです。
全体の印象として子供向けの挿絵として描いたように思えます。
ただ、男子をモチーフにした彼の作品というのがあまり記憶に無いためか、どうもしっくりこない感があります。
藤田の作品だと言われないと気づかない。
きっと藤田のどんな作品にも(たとえ戦争画でも)感じる画狂としての彼の特質が無いからかもしれません。
2014年8月13日水曜日
Intermission 藤井浩祐の作品展が開催されるそうです。
8月29日~10月19日の間、岡山県井原市田中美術館にて「彫刻家 藤井浩祐の世界」展が開催されるそうです。
藤井浩祐は、1907(明治40)年、東京美術学校彫刻科卒、第一回文展に出品します。
以後も官展に出品を続け、近代日本彫刻史を第一線で見続けた作家です。
さらに、下の文鎮やペーパーナイフの様な作品までも多く手がけています。
藤井浩佑作 毎日新聞社主催 第14回映画コンクール記念品
藤井浩佑作 早稲田大学、大隈重信像の ペーパー ナイフ
作品は多数ありながらも主となるものが戦火で失われたことと、彫刻の啓蒙書である「彫刻を試みる人へ」の執筆などの多彩な仕事ぶりによって、逆に藤井浩佑像というものの焦点が合いにくい作家です。
また、古風というか伝統的というか保守というか、どこか前時代的なイメージを抱かせる作家でもあります。同時代の朝倉文夫や北村西望が、新進気鋭として出発したのに対し、一歩引いているように見えます。
扱う主題は女性像が多いのですが、主体性を持つ女性というより、浮世絵的な男性視点の女性像、柔らかく母性を感じさせる女性を得意とした点も、前近代的に感じさせる要因なのでしょうか。
かと言って国粋というわけでもなく、そのため戦時の時風に乗ることもなく、 たんたんと「藤井浩佑」という作家としての仕事をこなした人物ではないかと考えています。
それは、市井のために、他者の為にある彫刻という、とても優しい作風であり、それが藤井浩佑という作家なのだと思います。
今回の展覧会では、そんな藤井浩佑を日本美術史に位置づけるようなものとなるのではと期待しています。
2014年8月10日日曜日
北村西望作 「平和祈念像」
この1955(昭和30年)に制作された 「平和祈念像」 は、北村西望氏によるものです。
前回「戦後の銅像に就いて」として、この像についての氏のコメント「「神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命 を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。」 を書きました。
今回は、この作品の図像的な意味を考えてみたいと思います。
この作品は、一種の信仰対象になっているように思えます。
特定の宗教関連の作品でもない、仏像でもキリスト像でもない、一つの美術家の作品が信仰対象になるというのはなかなかないことでしょう。
それを成せたことが北村西望という作家の力なんでしょう。
その理由は、彼の作風にあると思います。
まず、その作品がどこの誰かわからない抽象化された像であることがその一つ。
戦前の彫刻は、基本的にモデルを用い、その姿を写すことをその仕事としました。
同期の朝倉文夫の作品を見るとわかりますが、 どこの誰ソレをモデルとしたのか必ずわかる作風が一般的でした。
その中で北村西望は、ロダン的な彫刻の解釈から人間の身体を抽象化することを、自身の作風とします。
その結果、「平和祈念像」が、誰かを特定しないことにより、古来からの仏像のように、より信仰の対象となりやすくなったと考えられます。
それは北村西望でなければできなかった仕事なのでしょう。
次に、その抽象化がどうなされたのか、そのベクトルの向きについて考えます。
彼は「「神の愛と仏の慈悲を象徴し」と自身でコメントしているように、その抽象化のあり方に宗教的な意味合いを求めたことは確かでしょう。
「平和祈念像」の顔は、キリスト像のように長髪で、仏像のように半眼です。
ここだけ見れば、男か女かわかりません。それは、性別が無いとされる(男でも女でもある)観音菩薩も同様です。
この像は、日本の伝統的な観音像の一つのバリエーションと言えるのではないでしょうか。
北村西望は、意図的かどうかわかりませんが、この「平和祈念像」を伝統的な観音像として制作したのではないでしょうか。
その為に、この筋肉質な身体であっても、どこか女性的な印象を受けるのです。
仏像のように抽象化された身体を持つ、観音像のバリエーションの一つである「平和祈念像」ですが、そうは言っても、この像は伝統的かと言われればそうだとは言えません。
日本人にとって彫刻という仕事が明治以降の近代の産物であり、北村西望の仕事が近代の産物である以上、この像もまた同様です。
それ以前からの断絶があり、仏像や観音像といった伝統から、歴史からの断絶を示します。
それが、原爆前後という歴史の断絶、区切りを示すことに繋がり、この作品に向かう者にとって意味を成すのではないでしょうか。
但し、前回書いたように、その断絶を示す手法が戦前中に養われたものだということに違和感は残りますが。
前回「戦後の銅像に就いて」として、この像についての氏のコメント「「神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命 を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。」 を書きました。
今回は、この作品の図像的な意味を考えてみたいと思います。
この作品は、一種の信仰対象になっているように思えます。
特定の宗教関連の作品でもない、仏像でもキリスト像でもない、一つの美術家の作品が信仰対象になるというのはなかなかないことでしょう。
それを成せたことが北村西望という作家の力なんでしょう。
その理由は、彼の作風にあると思います。
まず、その作品がどこの誰かわからない抽象化された像であることがその一つ。
戦前の彫刻は、基本的にモデルを用い、その姿を写すことをその仕事としました。
同期の朝倉文夫の作品を見るとわかりますが、 どこの誰ソレをモデルとしたのか必ずわかる作風が一般的でした。
その中で北村西望は、ロダン的な彫刻の解釈から人間の身体を抽象化することを、自身の作風とします。
その結果、「平和祈念像」が、誰かを特定しないことにより、古来からの仏像のように、より信仰の対象となりやすくなったと考えられます。
それは北村西望でなければできなかった仕事なのでしょう。
次に、その抽象化がどうなされたのか、そのベクトルの向きについて考えます。
彼は「「神の愛と仏の慈悲を象徴し」と自身でコメントしているように、その抽象化のあり方に宗教的な意味合いを求めたことは確かでしょう。
「平和祈念像」の顔は、キリスト像のように長髪で、仏像のように半眼です。
ここだけ見れば、男か女かわかりません。それは、性別が無いとされる(男でも女でもある)観音菩薩も同様です。
この像は、日本の伝統的な観音像の一つのバリエーションと言えるのではないでしょうか。
北村西望は、意図的かどうかわかりませんが、この「平和祈念像」を伝統的な観音像として制作したのではないでしょうか。
その為に、この筋肉質な身体であっても、どこか女性的な印象を受けるのです。
仏像のように抽象化された身体を持つ、観音像のバリエーションの一つである「平和祈念像」ですが、そうは言っても、この像は伝統的かと言われればそうだとは言えません。
日本人にとって彫刻という仕事が明治以降の近代の産物であり、北村西望の仕事が近代の産物である以上、この像もまた同様です。
それ以前からの断絶があり、仏像や観音像といった伝統から、歴史からの断絶を示します。
それが、原爆前後という歴史の断絶、区切りを示すことに繋がり、この作品に向かう者にとって意味を成すのではないでしょうか。
但し、前回書いたように、その断絶を示す手法が戦前中に養われたものだということに違和感は残りますが。
2014年8月3日日曜日
朝倉文夫作 「國香會賞」レリーフ
朝倉文夫という彫刻家はとにかく多趣味な人で、このレリーフにある「國香會」とは、朝倉文夫が昭和8年に立ち上げた全国愛蘭家団体です。
この団体は、戦時中に一時中断され、戦後再開したそうなのですが、このレリーフは、その当時のものでしょう。作品自体は何時制作されたかはわかりませんが。
さすがと言いますか、この蘭の構図が絶妙ですね。
蘭というと高価な花、贈与品としての人工的な花というイメージがありますが、こうした会の発足当時は、もっと純粋に美しい花として愛されていたのではないでしょうかね。
朝倉文夫が出世し、権威となっっていった姿と、この蘭の有り様が重なって見えます。
2014年7月6日日曜日
Intermission 明治大正/異端の科学 奇なるものへの挑戦
岐阜県博物館へ「明治大正/異端の科学 奇なるものへの挑戦」を観てきました。
チラシにもありますが、千里眼、念写、霊術、変態心理、メスメリズム...生命主義、ヒステリー、心理学、神秘主義...と、明治、大正時代に日本の近代化の影に表にとノイズのように現れた物事の数々をまとめ展示した、ものすごいマニアック且つ、僕としては大好物な展覧会でした。
この展示でも言われていたのですが、当時、こういったオカルトは教養の一部でした。
知識人にとっては、否定肯定関わらず、知識として共有していました。
現在、私達が当たり前の文化だと認識している日本の文学や科学や美術や音楽などは、この混迷の時代にオカルトと結ばれ、そしてそこからの派生としてあります。
しかし、日本近代文学史や美術史では、こういったオカルトは語られることはありません。
例えば、この展覧会でもデスマスク が展示されていた岡田虎二郎。
彼の提唱した岡田式静座法は、修身によって心身を強健とするといったものでしたが、それを支持した新宿中村屋の相馬黒光らによって、多くの美術家にも信仰者がいました。
このデスマスクを作成した北村正信 もそうだったでしょうし、中村屋と親交があった中原悌二郎もそうでした。
中原悌二郎の彫刻作品のいくつかは、その思想下のものだと言えます。
彼は岡田虎二郎死後もその教えを守って薬を飲まず、結果自身の命も縮めることになりました。
ゴッホについて多くの著作を持つ式場隆三郎もまた、こういったオカルトを教養とし、自身も半分足を突っ込んでいただろうと思います。
よって、彼の見出した山下清や日本のアール・ブリュットなども、こういったオカルトを起源の一つにするものと言えるのではないでしょうか。
こういったものを正史として扱おうとするこの展覧会は、大変意義のあるものではないかと思います。
ただ、明治期からの日本近代宗教史、特に新興宗教について(一部、大本教についてはありましたが)を一緒に並べるととができれば、よりこの歴史に立体感がでるのではないでしょうか。
そしてオウム真理教までもその軸に入れることができれば...
チラシにもありますが、千里眼、念写、霊術、変態心理、メスメリズム...生命主義、ヒステリー、心理学、神秘主義...と、明治、大正時代に日本の近代化の影に表にとノイズのように現れた物事の数々をまとめ展示した、ものすごいマニアック且つ、僕としては大好物な展覧会でした。
この展示でも言われていたのですが、当時、こういったオカルトは教養の一部でした。
知識人にとっては、否定肯定関わらず、知識として共有していました。
現在、私達が当たり前の文化だと認識している日本の文学や科学や美術や音楽などは、この混迷の時代にオカルトと結ばれ、そしてそこからの派生としてあります。
しかし、日本近代文学史や美術史では、こういったオカルトは語られることはありません。
例えば、この展覧会でもデスマスク が展示されていた岡田虎二郎。
彼の提唱した岡田式静座法は、修身によって心身を強健とするといったものでしたが、それを支持した新宿中村屋の相馬黒光らによって、多くの美術家にも信仰者がいました。
このデスマスクを作成した北村正信 もそうだったでしょうし、中村屋と親交があった中原悌二郎もそうでした。
中原悌二郎の彫刻作品のいくつかは、その思想下のものだと言えます。
彼は岡田虎二郎死後もその教えを守って薬を飲まず、結果自身の命も縮めることになりました。
ゴッホについて多くの著作を持つ式場隆三郎もまた、こういったオカルトを教養とし、自身も半分足を突っ込んでいただろうと思います。
よって、彼の見出した山下清や日本のアール・ブリュットなども、こういったオカルトを起源の一つにするものと言えるのではないでしょうか。
こういったものを正史として扱おうとするこの展覧会は、大変意義のあるものではないかと思います。
ただ、明治期からの日本近代宗教史、特に新興宗教について(一部、大本教についてはありましたが)を一緒に並べるととができれば、よりこの歴史に立体感がでるのではないでしょうか。
そしてオウム真理教までもその軸に入れることができれば...
2014年7月5日土曜日
広島高等師範学校・広島高等工業学校・広島高校 弁論部 「ロダン」風メダル
このメダルの裏側には、「広島高師(広島高等師範学校)、広島高工(広島高等工業学校)、広島高校 弁論部 1925年」とあります。
弁論部にロダンの「考える人」とは、なかなかな組み合わせですね。
荻原守衛がロダンの「考える人」に出会って、彫刻家への転身を決めたのが、1904(明治37)年。
高村光太郎が雑誌から「考える人」を見つけ出したのが、同年1904(明治37)年。
日本にロダンの作品を広く知らしめた『白樺 ロダン号』が発行されたのが、1910年(明治43)年。
高村光太郎による「ロダンの言葉」発行が、1916(大正5)年。
そして、1920(大正9)年には、、院展洋画部主催の「フランス現代美術展」に、日本で初めて「考える人」が展示されます。
つまり、1925(大正14)年に造られたこのメダルは、日本に「考える人」が展示されて5年後のものだということですね。
この頃には、 白樺や高村光太郎によって、ロダンの「考える人」は広く知られる作品となっていたのでしょう。特に師範学校の弁論部といった知識人の間では常識だったかもしれません。
でも悲しいかな、なんとも貧弱な「考える人」になってしまってますね!
2014年6月15日日曜日
九州沖縄八県連合美術展 絵葉書
下の老人の作品は、日名子実三作「廃墟」。この作品は、 1920(大正9)年の第二回帝展に入選した作品で、翌年の1921年、第14回九州沖縄八県連合共進会に出品されました。
つまり、九州沖縄八県連合美術展とは、九州沖縄八県連合共進会という博覧会のの美術部門であるようです。この展覧会には、九州と沖縄の作家、洋画、日本画、彫刻家を一堂に会して行われたようですね。
この「廃墟」ですが、師朝倉文夫の「墓守」と比べると、より西欧的でキリスト教的な物語を感じさせる姿ですね。くどいというか、バター風味?
しかし、そこが日名子実三の持ち味なんですよね。
こういった作風が日本の古典と結びついて、後の日名子の作品らとなるのでしょう。
この作品は、現在大分大学学術情報拠点(図書館)に展示されています。
こちらのサイトで、当時の展示風景画が見られます。
ところで、弟である朝倉文夫は、この展覧会に出品しているのかな?
地方作家の展示というだけでは収まらない政治性があったのではないかと。
官展に地元の作家が入選すると、地元の街に日の丸が立った時代ですからね。
中央集権の為に美術があった時代なんでしょうね。
現在でも、地方の美術なんてことが言われます、美というのは常にヒエラルキーを背負っているものである以上、どこか頂点へと集権されてしまうのは致し方ないものなのでしょう。
2014年5月31日土曜日
板垣退助の銅像
5月21日が板垣退助の誕生日だとかで、高知市では、本日「板垣退助生誕祭」が行われているそうです。
地元岐阜にも、板垣退助と関係深い場所があり、今日はそこに行っていました。
そことは、岐阜城下、岐阜公園内にあります。
板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとされる「岐阜事件」の跡地であり、現在は板垣退助の銅像が建っています。
実はこの銅像、建立時と形状が違うんですね。
戦時の金属回収令で撤去され、後に再建したのだそうです。
では、大正6年の建立当時はどんな形だったか、当時の絵葉書を紹介します。
現在は、右手を上げ、左手に杖をついている状態ですが、戦前の銅像は、壇上で演説を行なっているかのような姿です。
戦前の方は、より自然で、リアリティーを感じさせる像になっています。、
顔つきも、現在より老けて見えますね。
その為か、より貫禄を感じます。
ただ、この台座を含め、背景になっている金華山の森が現在も変わりなくあって、ちょっと嬉しいですね。
この土佐の上士が、自由民権という不可思議な概念をもって政治を行おうと至ったわけが知りたいですね。彼の思想のベースはどういったものだったんだろう?
地元岐阜にも、板垣退助と関係深い場所があり、今日はそこに行っていました。
そことは、岐阜城下、岐阜公園内にあります。
板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとされる「岐阜事件」の跡地であり、現在は板垣退助の銅像が建っています。
実はこの銅像、建立時と形状が違うんですね。
戦時の金属回収令で撤去され、後に再建したのだそうです。
では、大正6年の建立当時はどんな形だったか、当時の絵葉書を紹介します。
現在は、右手を上げ、左手に杖をついている状態ですが、戦前の銅像は、壇上で演説を行なっているかのような姿です。
戦前の方は、より自然で、リアリティーを感じさせる像になっています。、
顔つきも、現在より老けて見えますね。
その為か、より貫禄を感じます。
ただ、この台座を含め、背景になっている金華山の森が現在も変わりなくあって、ちょっと嬉しいですね。
この土佐の上士が、自由民権という不可思議な概念をもって政治を行おうと至ったわけが知りたいですね。彼の思想のベースはどういったものだったんだろう?