2014年8月30日土曜日
中牟田三治郎 作「秩父宮殿下台臨記念 京都帝国大学学友会」メダル
中牟田三治郎(ナカムタ ミチロウ)は、戦前、中原悌二郎や橋本平八のように、若くして亡くなった彫刻家の一人です。
彼は、1930(昭和5)年、38才で亡くなりました。
そのため、生前にその力を認められながらも、日本の彫刻史において、殆ど語られることのない作家の一人です。
中牟田三治郎は、1892(明治25)年、福岡生れ、19才で上京し、武石弘三郎に師事します。
1916(大正5)年に東京美術学校彫刻家塑像部に入学、白井雨山に学びます。
1922(大正11)年に京都帝国大学工学部建築学科彫塑実習第1部の講師となります。
1924(大正13年)には帝展に「或る日頃」を出品、1927(昭和2)年に構造社に参加します。
この「秩父宮殿下台臨記念 京都帝国大学学友会」メダルは、京都帝国大学工学部の講師だったことで制作依頼が来たのでしょう。
中牟田三治郎は、昭和4年に「きつね」という作品が秩父宮家に収蔵されています。(現在は宮内庁三の丸尚蔵館が収蔵)
これも、このメダルの縁なのでしょうか。
彼は、ドイツ表現主義に影響を受けたと言います。
このメダルの造形もその影響を感じさせます。
以前こんなことを書きましたが、彼もまた、日本表現主義彫刻のミッシング・リングを繋げる作家なのかもしれません。
そういえば、 三の丸尚蔵館に新館ができるとか。
「きつね」も展示されると嬉しいですね。
2014年8月15日金曜日
Intermission 藤田嗣治画 郵便貯金百億円記念 絵葉書
今日という日にどんな作品を紹介しようかと考えまして、藤田嗣治による「郵便貯金百億円記念」絵葉書にしました。
この絵葉書は、皇紀2602年(1942(昭和17年))に発売されてもののようです。
他に川端龍子によるものもあるようです。
藤田嗣治の絵画というよりイラストですね。
サイズの合わない軍服を仕立て直した服を着た男子が、日の丸に百億と書かれた凧を持ち、富士山と戦闘機をバックに立っています。
一枚の絵に多くの情報を詰め込むのは藤田らしいです。
全体の印象として子供向けの挿絵として描いたように思えます。
ただ、男子をモチーフにした彼の作品というのがあまり記憶に無いためか、どうもしっくりこない感があります。
藤田の作品だと言われないと気づかない。
きっと藤田のどんな作品にも(たとえ戦争画でも)感じる画狂としての彼の特質が無いからかもしれません。
2014年8月13日水曜日
Intermission 藤井浩祐の作品展が開催されるそうです。
8月29日~10月19日の間、岡山県井原市田中美術館にて「彫刻家 藤井浩祐の世界」展が開催されるそうです。
藤井浩祐は、1907(明治40)年、東京美術学校彫刻科卒、第一回文展に出品します。
以後も官展に出品を続け、近代日本彫刻史を第一線で見続けた作家です。
さらに、下の文鎮やペーパーナイフの様な作品までも多く手がけています。
藤井浩佑作 毎日新聞社主催 第14回映画コンクール記念品
藤井浩佑作 早稲田大学、大隈重信像の ペーパー ナイフ
作品は多数ありながらも主となるものが戦火で失われたことと、彫刻の啓蒙書である「彫刻を試みる人へ」の執筆などの多彩な仕事ぶりによって、逆に藤井浩佑像というものの焦点が合いにくい作家です。
また、古風というか伝統的というか保守というか、どこか前時代的なイメージを抱かせる作家でもあります。同時代の朝倉文夫や北村西望が、新進気鋭として出発したのに対し、一歩引いているように見えます。
扱う主題は女性像が多いのですが、主体性を持つ女性というより、浮世絵的な男性視点の女性像、柔らかく母性を感じさせる女性を得意とした点も、前近代的に感じさせる要因なのでしょうか。
かと言って国粋というわけでもなく、そのため戦時の時風に乗ることもなく、 たんたんと「藤井浩佑」という作家としての仕事をこなした人物ではないかと考えています。
それは、市井のために、他者の為にある彫刻という、とても優しい作風であり、それが藤井浩佑という作家なのだと思います。
今回の展覧会では、そんな藤井浩佑を日本美術史に位置づけるようなものとなるのではと期待しています。
2014年8月10日日曜日
北村西望作 「平和祈念像」
この1955(昭和30年)に制作された 「平和祈念像」 は、北村西望氏によるものです。
前回「戦後の銅像に就いて」として、この像についての氏のコメント「「神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命 を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。」 を書きました。
今回は、この作品の図像的な意味を考えてみたいと思います。
この作品は、一種の信仰対象になっているように思えます。
特定の宗教関連の作品でもない、仏像でもキリスト像でもない、一つの美術家の作品が信仰対象になるというのはなかなかないことでしょう。
それを成せたことが北村西望という作家の力なんでしょう。
その理由は、彼の作風にあると思います。
まず、その作品がどこの誰かわからない抽象化された像であることがその一つ。
戦前の彫刻は、基本的にモデルを用い、その姿を写すことをその仕事としました。
同期の朝倉文夫の作品を見るとわかりますが、 どこの誰ソレをモデルとしたのか必ずわかる作風が一般的でした。
その中で北村西望は、ロダン的な彫刻の解釈から人間の身体を抽象化することを、自身の作風とします。
その結果、「平和祈念像」が、誰かを特定しないことにより、古来からの仏像のように、より信仰の対象となりやすくなったと考えられます。
それは北村西望でなければできなかった仕事なのでしょう。
次に、その抽象化がどうなされたのか、そのベクトルの向きについて考えます。
彼は「「神の愛と仏の慈悲を象徴し」と自身でコメントしているように、その抽象化のあり方に宗教的な意味合いを求めたことは確かでしょう。
「平和祈念像」の顔は、キリスト像のように長髪で、仏像のように半眼です。
ここだけ見れば、男か女かわかりません。それは、性別が無いとされる(男でも女でもある)観音菩薩も同様です。
この像は、日本の伝統的な観音像の一つのバリエーションと言えるのではないでしょうか。
北村西望は、意図的かどうかわかりませんが、この「平和祈念像」を伝統的な観音像として制作したのではないでしょうか。
その為に、この筋肉質な身体であっても、どこか女性的な印象を受けるのです。
仏像のように抽象化された身体を持つ、観音像のバリエーションの一つである「平和祈念像」ですが、そうは言っても、この像は伝統的かと言われればそうだとは言えません。
日本人にとって彫刻という仕事が明治以降の近代の産物であり、北村西望の仕事が近代の産物である以上、この像もまた同様です。
それ以前からの断絶があり、仏像や観音像といった伝統から、歴史からの断絶を示します。
それが、原爆前後という歴史の断絶、区切りを示すことに繋がり、この作品に向かう者にとって意味を成すのではないでしょうか。
但し、前回書いたように、その断絶を示す手法が戦前中に養われたものだということに違和感は残りますが。
前回「戦後の銅像に就いて」として、この像についての氏のコメント「「神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命 を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。」 を書きました。
今回は、この作品の図像的な意味を考えてみたいと思います。
この作品は、一種の信仰対象になっているように思えます。
特定の宗教関連の作品でもない、仏像でもキリスト像でもない、一つの美術家の作品が信仰対象になるというのはなかなかないことでしょう。
それを成せたことが北村西望という作家の力なんでしょう。
その理由は、彼の作風にあると思います。
まず、その作品がどこの誰かわからない抽象化された像であることがその一つ。
戦前の彫刻は、基本的にモデルを用い、その姿を写すことをその仕事としました。
同期の朝倉文夫の作品を見るとわかりますが、 どこの誰ソレをモデルとしたのか必ずわかる作風が一般的でした。
その中で北村西望は、ロダン的な彫刻の解釈から人間の身体を抽象化することを、自身の作風とします。
その結果、「平和祈念像」が、誰かを特定しないことにより、古来からの仏像のように、より信仰の対象となりやすくなったと考えられます。
それは北村西望でなければできなかった仕事なのでしょう。
次に、その抽象化がどうなされたのか、そのベクトルの向きについて考えます。
彼は「「神の愛と仏の慈悲を象徴し」と自身でコメントしているように、その抽象化のあり方に宗教的な意味合いを求めたことは確かでしょう。
「平和祈念像」の顔は、キリスト像のように長髪で、仏像のように半眼です。
ここだけ見れば、男か女かわかりません。それは、性別が無いとされる(男でも女でもある)観音菩薩も同様です。
この像は、日本の伝統的な観音像の一つのバリエーションと言えるのではないでしょうか。
北村西望は、意図的かどうかわかりませんが、この「平和祈念像」を伝統的な観音像として制作したのではないでしょうか。
その為に、この筋肉質な身体であっても、どこか女性的な印象を受けるのです。
仏像のように抽象化された身体を持つ、観音像のバリエーションの一つである「平和祈念像」ですが、そうは言っても、この像は伝統的かと言われればそうだとは言えません。
日本人にとって彫刻という仕事が明治以降の近代の産物であり、北村西望の仕事が近代の産物である以上、この像もまた同様です。
それ以前からの断絶があり、仏像や観音像といった伝統から、歴史からの断絶を示します。
それが、原爆前後という歴史の断絶、区切りを示すことに繋がり、この作品に向かう者にとって意味を成すのではないでしょうか。
但し、前回書いたように、その断絶を示す手法が戦前中に養われたものだということに違和感は残りますが。
2014年8月3日日曜日
朝倉文夫作 「國香會賞」レリーフ
朝倉文夫という彫刻家はとにかく多趣味な人で、このレリーフにある「國香會」とは、朝倉文夫が昭和8年に立ち上げた全国愛蘭家団体です。
この団体は、戦時中に一時中断され、戦後再開したそうなのですが、このレリーフは、その当時のものでしょう。作品自体は何時制作されたかはわかりませんが。
さすがと言いますか、この蘭の構図が絶妙ですね。
蘭というと高価な花、贈与品としての人工的な花というイメージがありますが、こうした会の発足当時は、もっと純粋に美しい花として愛されていたのではないでしょうかね。
朝倉文夫が出世し、権威となっっていった姿と、この蘭の有り様が重なって見えます。