今後、近代彫刻史を語るうえで重要な文献になるでしょう。
編集されたのは、畑正吉の孫にあたる畑文夫氏です。(お世話になっております!)
畑正吉の仕事は、序で美術史家の森仁史氏が書かれたように、日本の近代化と寄り添い歩んみ、造形によって新しい「価値(それをモダニズムと言えるのかもしれませんが)」を広めようとされた事だと思っています。
それは所謂ソーシャルデザインであったと言えます。
しかし、その評価というのは、氏が「志を得られなかったデザイナー」と書かれたように、純粋美術との間に合って、黎明期のデザイナーであり、当時実現できた社会と畑の語る理想とに落差がありました。
しかし私は、その落差そのものが、実は現在とを繋げるもの、現代にあって語られるべきものではないかと考えています。
私はデザイン科出身で、20代の頃はデザインの仕事もしていました。
そこで体に覚えさせられたことは、デザインとはクライアントに求められて資本の拡大再生産の為に用いられる造形だと言う事。
利を求める「他者」の為にあるものだと。
たしかに、畑正吉には、その視線が抜けています。
あえて、目を向けなかったとも言えるでしょう。
特に現代はそれが「正しい事」と言われがちです。
ユニクロなどのファストファッション、スマホに出る広告、見栄え重視の図書館まで...
しかし、かつてデザインを含めた商業的なクリエイトには世界を変えようと言う意思がありました。
特に80年代、COMME des GARÇONSやヨウジヤマモト、セゾン文化やパルコ、無印良品。
例えば、アダルトビデオだってそうだった。(坂本龍一とかね)
世界的には、初期Twitterやアップルとスティーブジョブズ。
それらは遅れてきた左翼運動でもありました。
70年代に乗り遅れた、または反省した彼らの革命運動が、こういった「商業的なクリエイト」であったと言えます。
スティーブジョブズは正に、その資本力と技術とカリスマによって世界を革命しようと考えます。
しかし、その死によって革命の不可能性だけが世界に刻まれたようでした。
大災害にコロナ禍やウクライナ戦争によって、現在の私たちは特にそう感じるでしょう。
現代の「商業的なクリエイト」による革命運動とその挫折。
それは畑正吉の姿と重なりはしないでしょうか?
歴史は繰り返します。
その挫折の姿こそが、近代と現代を、畑正吉と現在とを繋げるものだと思うのです。
そういう視点で、畑正吉を語り伝えていきたいと考えています。
本の紹介をありがとうございます。
返信削除正吉が「立体図案」の必要性を論じたのは、国策としての輸出振興を主目的と考えていたのでしょう。大正から昭和戦前期にかけて、職業としてのプロダクトデザイナーは現在とは比較にならないほど小さな存在であり、資生堂などごく一部の企業が必要としていたのだ思います。その必要性がひろく認識されだしたのは昭和中期以降で、正吉の教え子世代だった豊口克平や剣持勇たちの活躍まで待たなければなりませんでした。森仁史氏のいう「志を得られなかった」は、そのような意味にうけとれます。