大正12(1923)年に行われた日本美術院第10回展覧会。
そこで展示された石井鶴三作「こども」の絵葉書です。
この絵葉書と一緒にあるのが、新潟県三条市の彫刻家で日本美術院院友の半藤政衛による石井鶴三の略歴等を書いた便箋です。
この文章によると、石井鶴三作「こども」は、大正12年9月1日の関東大震災時に展示され、ほとんどの作品が破壊された中、無事だったそうです。
そして、今回「堀川社長」に譲られることとなり、半藤政衛による略歴と、日本美術院同人松原松造による箱書き、そしてこの絵葉書が合わせて渡されました。
半藤政衛は、石井鶴三に教えを受けた作家のようですね。
三条市にある松尾与十郎銅像
三条市立図書館にある良寛像
道の駅 燕三条地場産センター横にある「創」
こちらが、半藤政衛の公共の場所で見られる作品になります。
日本美術院展と当時の官展。
特に彫刻に於いては、月と太陽というイメージがあります。
院展にはどこか垢抜けなさがあるのですね。
そのイメージを作っているのが平櫛田中や佐藤朝山でなく、私にとっては石井鶴三なんです。
この「こども」もそうなんですが、どこかに「ネクラ」さを感じさせる。
良い悪いでなく、石井鶴三という作家は根元的な貧相さを抱えていると思いませんか?
1938年の「猫」という作品があるのですが、これが威嚇しているガリガリの痩せた猫なんです。朝倉文夫の良いもの食ってそうな猫が描けない。
漫画で言えば、白土三平とかつげ義春とかのガロっぽさがあって、それを半藤政衛の略歴にあるように「内面的な自然観照にもとづ」いた作品と評している。
そういった根元的アングラ作家が東京美術学校で教えていたというのは、面白く思うんです。
戦後日本を蹂躙した抽象彫刻の持つ「ネアカ」さに耐えられなかっただろうな~と。
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