2016年6月25日土曜日
畑正吉 作 板垣退助銅像 追加情報
以前も紹介いたしました、岐阜城下に設置された旧板垣退助銅像の追加情報です。
以前の記事
この銅像ですが、今回の私の展覧会でも多くの作品を紹介させていただいた「畑正吉」の作なんですね。
この銅像と関連付けて説明ができていれば、もっと皆さんに興味を持っていただけたのではないかと...自分の知識不足を悔やみます~
設置は大正7(1918)年4月21日。
岐阜の医師で政治家の山田永俊らによって、「板垣退助伯遭難記念銅像」の除幕式が行われ、これには板垣夫妻も出席したそうです。
『作春以来県下有志者の尽力に成れる岐阜公園板垣遭難記念銅像は愈々今二十一日を以て老伯夫妻令息等親しく臨場の上盛大なる除幕式を挙行せらる。会場前には大緑門を設へ付近一帯渓流に沿へる茶亭まで電灯を増点し国旗を連串し且つ会場の周辺には紅白だんだらの垂幕を張繞らす等...」岐阜日日新聞より
また、花火大会、六番踊り等各種催し、青年学生相撲大会までもが行われます。
銅像の高さは8尺(2.4メートル)と人体より若干大きく、台座に乗って見上げる姿は、その頭が小さく見えてしまったことで、畑正吉が制作後悔やんだとか。
板垣退助は翌年の大正8年になくなっているわけで、除幕式当時82歳。
板垣退助の殺人未遂事件が起きたのは、明治15(1882)年。当時45歳。
ちょっと面白いと思うのは、この銅像は80歳台の板垣退助の像であるってことなんです。
つまり、事件を記念していながら、その当時の場景(演壇に立った姿)を模した像ではない。
(殺人未遂現場を記念するってことも変な話ですけどね)
これが、例えば織田信長像であれば、一番パブリックなイメージの像を作るはずなんです。
制作当時に、板垣伯がご存命であったってことが、その当時の姿を作る理由だったのでしょう。
これを、現在の私たちから見ると、ちょっと変な印象を受けるのですよね。
ということは、畑正吉は、板垣退助をモデルに立たせて制作を行ったということでしょうか。
ただし、82歳のご老体が、この銅像にみられるようにここまで背筋を伸ばせることは難しいでしょうから、座ってモデルにし、立ち姿は想像なのかもしれません。
そして、この銅像、昭和18年の金属回収にて姿を消します...
現在は、昭和25年に柴田佳石作として再建された像が建っているわけです。
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