これもちょっと変わった資料で、加納鉄哉の領収書です。
加納鉄哉は岐阜県出身の彫刻家で、高村光雲が教える前の東京美術学校で、ほんとに少しの間だけですが教鞭をとっていた人物です。
辞めた理由はよくわかりませんが、かなり癖のある人物であったらしく、それが影響したのかもしれません。
もしかしたら、光雲もなかなか慣れなかったという、岡倉天心指示による東京美術学校の制服に不満があったのかもしれませんね。
そんな人物ですから金銭面でもけっこう問題を抱えていたんじゃないかなんて思ってしまいますが、こうやって領収書を出すくらいは社会性があったようですね。
まぁ、これは代理人が書いたもののようですが。
こういった文を読む技術が未熟なので、間違っていたら指摘していただきたいのですが、
木彫に百二十円、箱に二円、合計百二十二円を受取ったという証文ですね。
明治期の1円は現在の1~2万くらいの価値だったと言うので、百二十二円とは、多く見て240万くらいでしょうか。
そんな木彫ってなんだろう??
2015年5月10日日曜日
2015年5月3日日曜日
長沼守敬 近藤由一 銅像 契約書
手に入れたのは結構前だったのですが、GWで時間も取れるしと確認に開いてみたら驚いた!
これは銅像の契約書です。
銅像のサイズや作業期間、作業場所などが書かれています。
そして、その作業にあたるのが、明治時代の彫刻家、 長沼守敬(もりよし) 近藤由一。
なんと、その署名があります!
長沼守敬は、東京美術学校塑造科の初代主任教授です。日本近代彫刻史の先発作家ですね。
近藤由一は、工部美術学校彫刻学科の第一期生。
彼らが制作した銅像で、この条件にあたるのは、山口市亀山公園にある毛利敬親の銅像です。
現在も同地に建っていますが、これは戦後に再建したものです。
長沼守敬は毛利敬親だけでなく、毛利元周、毛利元蕃、毛利元純、毛利元徳と毛利家の藩主を同時期に作成しています。契約書に四公とありますが、この4名のことでしょう。
きっと、長州藩系の実力者に頼まれた仕事だったんでしょうね。
そういえば安倍首相も長州ですね~。
契約書によると、銅像は東京砲兵工廠で完成することとなっています。
靖国神社の大村益次郎像もここで造られたものですね。
いや、これは面白い資料だ。当時の銅像の写真が手元にないのが残念です。
2015年5月1日金曜日
Intermission 「若林奮 飛葉と振動」展 所感
現在、名古屋市美術館で行われています 「若林奮 飛葉と振動」展に行ってきました。
http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2015/wakabayashi/
名古屋市美術館は、荒川修作みたいな詩的で哲学風味の作家が好きですね。
この作家の作品を始めて拝見したのは何年前だろう?
その時感じたことを、今回こうやってまとめて作品を見ても変わらず、同じように感じました。
それを言葉にするとしたら、この作家はお化け煙突を目印に遊ぶ両津勘吉なんだろうなってことです。
これではわかりづらいと思うので、もう一つ例えるとしたら、諸星大二郎の名作「僕とフリオと校庭で 」の世界観に彼の作品はあると思うのですよ。
子供、夕焼け、煙突、工場、隠れ家、UFO、SF、自分を見下ろすモノ...
彼の作品は、工場を遊び場にしていた子供、僕自身がそうであったのですが、その世界を思い出させるんです。
かといって、つげ義春のこれも名作「大場電気鍍金工業所」のようにリアリズムがあるわけでもなく、社会性があるわけでもない。
そこが詩的な所以でしょうね。
哲学や美術が社会と乖離し、純粋にただそれだけの存在となってしまったかのように、子供の毎日がいつも新しくあるように、若林奮の作品は浮世を離れ、ただ在るというモノなのだろうと思います。
彼の作品は、神の目線というか世界を俯瞰で見ています。
人を外から見ている。
ランドスケープ的というか、建築的というか、そういった視線で作品が成っていると思います。
その視線の在り方が浮世離れした印象を与えるのですが、唯一その視線が地に着く時があるようです。
それは彼がモチーフに犬を使う時で、それはまるで「僕とフリオと校庭で 」のラストシーンのように、もう戻らない子供時代を振り返るような懐かしさを感じさせます。
http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2015/wakabayashi/
名古屋市美術館は、荒川修作みたいな詩的で哲学風味の作家が好きですね。
この作家の作品を始めて拝見したのは何年前だろう?
その時感じたことを、今回こうやってまとめて作品を見ても変わらず、同じように感じました。
それを言葉にするとしたら、この作家はお化け煙突を目印に遊ぶ両津勘吉なんだろうなってことです。
これではわかりづらいと思うので、もう一つ例えるとしたら、諸星大二郎の名作「僕とフリオと校庭で 」の世界観に彼の作品はあると思うのですよ。
子供、夕焼け、煙突、工場、隠れ家、UFO、SF、自分を見下ろすモノ...
彼の作品は、工場を遊び場にしていた子供、僕自身がそうであったのですが、その世界を思い出させるんです。
かといって、つげ義春のこれも名作「大場電気鍍金工業所」のようにリアリズムがあるわけでもなく、社会性があるわけでもない。
そこが詩的な所以でしょうね。
哲学や美術が社会と乖離し、純粋にただそれだけの存在となってしまったかのように、子供の毎日がいつも新しくあるように、若林奮の作品は浮世を離れ、ただ在るというモノなのだろうと思います。
彼の作品は、神の目線というか世界を俯瞰で見ています。
人を外から見ている。
ランドスケープ的というか、建築的というか、そういった視線で作品が成っていると思います。
その視線の在り方が浮世離れした印象を与えるのですが、唯一その視線が地に着く時があるようです。
それは彼がモチーフに犬を使う時で、それはまるで「僕とフリオと校庭で 」のラストシーンのように、もう戻らない子供時代を振り返るような懐かしさを感じさせます。