2014年5月10日土曜日

Ottil.o Pecci 作 「生命の泉」 絵葉書


絵葉書には「ペシー氏」とありますが、Ottil.o Pecci(オッティリオ・ペッチ)が作家の名前だと思います。

この「ペシー氏」について、詳しいことを書かれたサイトがありました。
早稲田大学リポジトリ、論文等をネット上に公開するサイトのようです。
→こちら

これに書かれた「ペシー氏」の略歴をまとめてみます。
1897年イタリアのペルージャ生れ。
同地の美術学校で彫刻を学び、その仕事は、パリ、ロンドン、ニューヨークでも好評を博す。
パリで東洋美術の大学教授をし、1916(大正5)年、第一次世界大戦の戦乱を避けて高峰譲吉の息子エブレン夫妻と共に来日。
8年の滞在中に、幾つかの銅像を制作、展覧会を行い、そして日本女性オクムラ・ウラと結婚をする。
帰国後、1954(昭和29)年、死去。

絵葉書の作品は、1921(大正10)年に行われた第3回帝展の出品作ですので、来日してから5年後の作品ですね。
この彫刻家は大理石を用いた仕事を行なっていたようです。
また、政界財界に知人があり、早稲田の大隈重信胸像などの銅像をいくつか制作したようです。

この論文にもかかれてますが、彼が当時の日本の彫刻家たちとどう関わりをもったのか不明です。
来日したイタリアの彫刻家と言えば、1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導したラグーザが有名ですが、彼のように日本の彫刻史に名前の出ることのない「ペシー氏」は、どう日本の彫刻史に影響を与えたのでしょう?
もしかしたら、当時の日本の彫刻家にとって、彼の作はすでに古典だったのかもしれません。

 彼が帰国後、パリに滞在していたとして、第二次世界大戦時、そのパリに攻め込んだドイツと同盟を結んでいた日本に対し、どういった感情を抱いていたか気になります。

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