5月21日が板垣退助の誕生日だとかで、高知市では、本日「板垣退助生誕祭」が行われているそうです。
地元岐阜にも、板垣退助と関係深い場所があり、今日はそこに行っていました。
そことは、岐阜城下、岐阜公園内にあります。
板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとされる「岐阜事件」の跡地であり、現在は板垣退助の銅像が建っています。
実はこの銅像、建立時と形状が違うんですね。
戦時の金属回収令で撤去され、後に再建したのだそうです。
では、大正6年の建立当時はどんな形だったか、当時の絵葉書を紹介します。
現在は、右手を上げ、左手に杖をついている状態ですが、戦前の銅像は、壇上で演説を行なっているかのような姿です。
戦前の方は、より自然で、リアリティーを感じさせる像になっています。、
顔つきも、現在より老けて見えますね。
その為か、より貫禄を感じます。
ただ、この台座を含め、背景になっている金華山の森が現在も変わりなくあって、ちょっと嬉しいですね。
この土佐の上士が、自由民権という不可思議な概念をもって政治を行おうと至ったわけが知りたいですね。彼の思想のベースはどういったものだったんだろう?
2014年5月31日土曜日
2014年5月22日木曜日
2014年5月10日土曜日
Ottil.o Pecci 作 「生命の泉」 絵葉書
絵葉書には「ペシー氏」とありますが、Ottil.o Pecci(オッティリオ・ペッチ)が作家の名前だと思います。
この「ペシー氏」について、詳しいことを書かれたサイトがありました。
早稲田大学リポジトリ、論文等をネット上に公開するサイトのようです。
→こちら
これに書かれた「ペシー氏」の略歴をまとめてみます。
1897年イタリアのペルージャ生れ。
同地の美術学校で彫刻を学び、その仕事は、パリ、ロンドン、ニューヨークでも好評を博す。
パリで東洋美術の大学教授をし、1916(大正5)年、第一次世界大戦の戦乱を避けて高峰譲吉の息子エブレン夫妻と共に来日。
8年の滞在中に、幾つかの銅像を制作、展覧会を行い、そして日本女性オクムラ・ウラと結婚をする。
帰国後、1954(昭和29)年、死去。
絵葉書の作品は、1921(大正10)年に行われた第3回帝展の出品作ですので、来日してから5年後の作品ですね。
この彫刻家は大理石を用いた仕事を行なっていたようです。
また、政界財界に知人があり、早稲田の大隈重信胸像などの銅像をいくつか制作したようです。
この論文にもかかれてますが、彼が当時の日本の彫刻家たちとどう関わりをもったのか不明です。
来日したイタリアの彫刻家と言えば、1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導したラグーザが有名ですが、彼のように日本の彫刻史に名前の出ることのない「ペシー氏」は、どう日本の彫刻史に影響を与えたのでしょう?
もしかしたら、当時の日本の彫刻家にとって、彼の作はすでに古典だったのかもしれません。
彼が帰国後、パリに滞在していたとして、第二次世界大戦時、そのパリに攻め込んだドイツと同盟を結んでいた日本に対し、どういった感情を抱いていたか気になります。
2014年5月4日日曜日
Intermission 横山潤之助作 「煙草を燻らす人」絵葉書
第九回二科展美術展覧会出品、横山潤之助作「煙草を燻らす人」の絵葉書です。
この横山潤之助とは、いったいどんな人か。
実は、僕の地元とも縁ある作家なんです。
簡単な略歴を紹介します。
○1903(明治36)年 東京都文京区にて、横山徳次郎 康子の二男として生まれる。
父、横山徳次郎は岐阜県羽島郡の庄屋の長男で、岐阜県立中学校の初代校長を勤めたこともある人物でした。
○1920(大正9)年 川端画学校へ入学し藤島武二の指導を受ける。
この頃、兄が亡くなり、父徳次郎より医師になるよう期待されるが、反発。東京美術学校の受験も失敗する。
○1922(大正11)年、第9回二科展に「煙草を燻らす人(50号)」、「静物」「海水浴」などを出品し、樗牛賞を受賞する。また、同展に「埋葬」を出品した古賀春江と親交を持つ。
また、中川紀元、神原秦に誘われ、「アクション造形美術展」に参加することとなる。
この時、横山潤之助、19才。
○前衛美術作家としてスタートした横山だったが、1927(昭和3)年、突然画風を変え、第九回帝展に出品をする。翌年から海外を外遊し、1930(昭和5)年帰国。「有名な画家になるよりはすぐれた諸庶民になる―」と制作からはなれる決意をする。
○1945(昭和20)年、自宅が空襲にあい、アトリエと3000点の作品とが焼失。
縁を頼り岐阜市日野の精神病院精神神経科で無給奉仕の生活を始める。
○1955(昭和30)年、岐阜県各務原市に転居、50代になり、横山は再び絵筆を持ち始める。
その作品は、岐阜の自然を描いたものだった。
○1971(昭和46)年 死去。68才であった。
その年、「横山潤之助作品集刊行委員会」がつくられ、翌年発行される。
ざっと略歴を見ただけでも、なかなかの難物だったのだろうと想像されます。
加藤稔著「幻の画家横山潤之助」によれば、神経衰弱状態になっていたこともあり、精神病状態であったのではと推測されています。
岐阜での生活では、東京での過去を見せることなく、社交性も薄れ、死亡した折には近隣者が誰も葬儀に参加しなかったと言います。
それにしても、この 「煙草を燻らす人」が19才の頃の作品だとは驚きです。