以前、『「天の浮橋御像」大日本神像奉彫會謹作 この「大日本神像奉彫會」が何なのかまったく謎。』と紹介した絵葉書です。
この作品が何なのか、ようやくわかりました。
平瀬礼太著「彫刻と戦争の近代」によると、1943年6月4日の朝日新聞に、この作品と「大日本神像奉彫會」についての記事が掲載されました。
なんと、会の発起人は佐藤朝山(清蔵)。
仏画や仏像は多数あれど神像は少ないのを遺憾として、門下の越智綱雄、三木貞雄、田坂源治等々と若手彫刻家7名が血盟の上、荒木貞夫(陸軍軍人)、今泉定助(神道思想家)、安達謙蔵(政治家)、大島健一(陸軍軍人、政治家)らを顧問とし、考古学的意見を柴田常恵(考古学者)、神原信一郎に求め、この「大日本神像奉彫會」が誕生します。
そして、写真の 「天の浮橋御像」は、高さ6尺(1.8m)、これを全国に配布する予定だと言います。
実際はどうだったのだろう?
この作品が、現在国内に何点あるのだろうか?
2013年9月29日日曜日
2013年9月28日土曜日
Intermission 「依代プロジェクト」参加のお知らせ
2013年9月1日日曜日
佐藤朝山?? のメダル
以前、「模造メダルたち」 と題して、今で言う「パクリ」のメダルについて書いたことがありましたが、この翼を生やした武神のメダルも、同じく模造メダルだと言えるでしょう。
では、いったい何を模したのか。
このメダルは、昭和11年に大阪桃山中学校のサッカーの試合を記念して制作された様です。
その1年前、1935(昭和10)年には、時の文部大臣であった松田源治による、挙国一致体制強化のための制度の見直し(通称「松田改組」)が行われ、美術界が大荒れとなった年でした。
そんな年の官展(新文展)に出品されたのが下の作品です。
佐藤朝山は、、1888年、福島県生まれの彫刻家で、山崎朝雲に師事しますが、その激しい性格のために袂を分かち、フランスに渡り、木彫家でありながらも彫塑家であるアントワーヌ・ブールデルに師事します。
帰国後は日本美術院で作品を発表し、彫刻家橋本平八の師匠としても知られています。
上記の作品は、日名子もよく扱う「八咫烏」を題とした木彫で、ブールデルの影響を受け、時代的でモニュメントの性格を強く感じさせます。
当時の木彫家がこういったモダンなモニュメントを制作することが特異であり、また、この作品には、木彫において否定的に扱われていた艶やかな彩色までされていたと言います。
そのため、 「この色彩は一寸彫刻として附加物の感じがして。、もっと純粋に彫刻を感じたい気がしないこともない」と論評されます。
後に佐藤朝山は、日本橋三越にある「天女像」で、その彩色の技を爆発させたような作品を作りますが、その原点と言えるでしょう。
佐藤朝山は木彫という日本の伝統の技法を用いながらも、革新的な独自の芸術を模索した作家だと言えます。
この「八咫烏」は、残念ながら空襲により焼失してしまい、現在ではモノクロの写真が残るのみとなっています。
そのため、いったいどんな彩色だったのかわかりません。
先の大阪桃山中学校のメダルもその角度から見るに、写真などからの模倣ではないかと思います。もし、現物を見て模したのならば、どこかにその彩色も含めた資料が残っているのかもしれませんね。