この石膏像はミロのヴィーナスの胸像のようです。
岸和田に住む手紙の主は、本を送ってもらったお礼にとこの像を描いています。
この絵の出来はともかくとして...面白いのは石膏像を水彩で描いていることですね。
明治から大正にかけて水彩画ブームがあり、この水彩もその流れで習作として描かれたものだろうと思います。
確かに、グレーのみの一発勝負で階調を描くのは『骨の折れ』る仕事ですね。
そして、問題はこの石膏像をどこで描いたのかということです。
どこかの学校でしょうか?気になります。
2020年3月13日金曜日
2020年3月11日水曜日
畑文夫編集「彫刻と工芸の七十年 畑正吉」
文夫さんから、ご厚意でお譲り頂きました。
ありがたいです。
このように畑正吉について詳細にまとめることで、彼の提唱した「立体図案」の先駆性がより理解できるのではないでしょうか?
今の言葉で言えば、立体物の試作する際に2D図面を3Dモデルにし、かつ3Dプリンター等で立体モデルを制作する重要性を唱えたということです。
自動車のデザインでは、現在でも粘土を用いたクレイモデルを制作すると言います。
今では当たり前のことですが、大量消費時代以前において、それは先駆的でした。
ただし、畑正吉が「立体図案」で求めたものは機能以上に高い精神性でした。
彼のストイックな精神は、ゆえに資本主義とつながります。
それは、社会学者マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示したように、禁欲性こそが「資本主義」のコードを走らせるわけです。
畑正吉が昭和35年に日本経済新聞の「金銭教室」欄において『パリに留学していたころは、パンに水という生活であったが、芸術家にとって大切なものは「会心の作」を生みだすことにあるので、金は重要なものであるが、人をさしおいてまでとろう、無理してたくわえようとする気はない。これが私の金銭観である。』と書いています。
まさにこれが、『プロテスタンティズムの倫理』と近しいわけですね。
畑正吉作品の持つ高い精神性と「資本主義」、つまりヴァルター・ベンヤミンの言う「複製技術時代の芸術作品」であるメダルや肖像のレリーフ(西洋では貨幣に描かれる)、この両義性こそが彼の特徴であり、彼を理解する難しさではないかと思います。
そう考えると畑正吉が能を愛した理由もわかる気がします。
能は言わば身体をすべて使うダンスです。しかし動かさない。
静的でありながら動的、または静的でもなく動的でもない。
畑正吉の言葉で言えば『能は時代を超越して…しかして、この洗練された結果、表情の姿態には現世に見られない表示がある。…されば能は数百年のこのかた、渝(かわ)ることなく、今も生き生きとして承け継いでいる。これは動の型でもなく、また静の型でもない…』(「宝生」より)
この両義性。
というより、あれ(動)でも無く、これ(静)でも無くといった無常観。
これが畑正吉という作家であると「彫刻と工芸の七十年 畑正吉」を読み、再確認した次第です。