2019年5月26日日曜日
原型 畑正吉 謹作 時事新報付録 明治天皇像レリーフ
エンボス加工とは、凸凹模様を彫った押し型で強圧し、浮き出し模様を作る加工を言います。
このようなエンボス加工は、日露戦争後の多種多様のデザイン絵葉書が販売される絵葉書ブームの中で、多く制作されました。
画像で紹介しました明治天皇をモチーフにエンボス加工で制作された時事新報付録は、明治天皇崩御を記念して制作された物でしょう。
そして、彫刻家畑正吉によって制作された原型を用いています。
畑正吉は、東京美術学校の学生時代に児玉大将の紙型打出し(エンボス加工)像を制作しています。
この時、その加工制作に力を貸したのが紙の加工会社「尚山堂」の創立者浅野鉢太郎の3兄弟の一人、水野倶吉でした。
水野倶吉は、森永製菓のミルクキャラメル紙箱の考案者です。この箱入りキャラメルは、上野公園で開催された大正博覧会でお披露目され、ヒット商品となりました。
実は、彫刻家が粘土で制作した原型を石膏にし、それを縮彫機にかけて押し型原型を作るまでは、メダルの制作と同じです。
この押し型原型を金属に用いればメダルに、紙に用いればエンボス加工となるわけです。
その為、後にメダル制作の大家となる畑正吉が、こうした紙の加工制作に関わったわけですね。
ですから、このエンボス加工の歴史を追えば、近代彫刻の歴史に更に深みを与えることになるのではないかと思います。
しかし、彫刻家によるメダルの歴史と同様に、彫刻家によるエンボス加工の歴史もまた、語られていない歴史です。
更なる探索が必要のようです。
ちなみに、この明治天皇の肖像ですが、エドアルド・キヨッソーネのコンテ画を撮影した「御真影」の像を浮き彫りにしたものです。
つまり、畑正吉の手によって平面写真だったものを半立体化したわけですね。
それは明治天皇のお姿と共に、勲章も同様です。(当時の畑正吉がこれらの勲章を手にとって見ることはできなかったでしょう)
その経験は、後に畑正吉が数々の記念章や文化勲章を制作したことの糧となった...のかもしれません。
2019年5月18日土曜日
日名子実三作 第一回軍事援護美術展出品「サイパン」絵葉書
今までに何度か紹介してきました、この日名子の「サイパン」。
彼の最後の発表作であり、謎の多い作品です。
まず、この作品は女性なのか、男性なのか?
女性であったとして兵隊なのか?
「サイパン」とは、日本軍が全滅した「サイパンの戦い」を描いたものなのか?
現状で分かっているのは、この作品が1944(昭和19)年の10月に行われた第一回軍事援護美術展に出品されているということだけです。
この謎を解くために、まずは当時「サイパンの戦い」が一般的にどのようにイメージされていたかを知らなくてはなりません。そして、特にサイパンにいた女性たちががどのように語られたのか知りたい。
そのため、フェミニストで女性史研究家の加納実紀代の著書『「銃後史」をあるく』より『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』をもとにまとめてみたいと思います。
まず、当時の日本国民がサイパン陥落を知ったのは、南雲中将が自決し、全軍が玉砕突撃した1944年の7月7日から10日後の7月18日。
この日のラジオによって大本営発表が伝えられます。
そして一ヵ月後の8月19日。朝日新聞の一面トップに『壮絶・サイパン同胞の最後/岩上、大日章旗の前/従容、婦女子も自決/世界驚かす愛国の精華』の見出しが掲げられます。これは、アメリカのタイムの記者ロバート・シャーロッドによるサイパンでの民間人死者にたいする記事を、大本営発表の内容に合わせ、殉死として変容した内容でした。
この記事では、『悠然、黒髪を櫛けづる』の小見出しで『(米軍の)海兵は女達が岩の上に悠然と立って長い髪を櫛けづるのを見てびっくりした』『息を殺してみつめているとやがて日本の女達は互いに手を取りあって静に水中にはいって行った』と入水自殺の情景を語っています。
21日には報知新聞でも『サイパン同胞かく自決せり 悲壮絶す!従軍記者の筆に偲ぶ実相』とタイムの記者による記事を取り上げ、『兵士自決の模範示す/婦女は黒髪梳って死出の化粧』とします。
さらに8月23日の朝日新聞では、高村光太郎や作家林芙美子、歌人中河幹子にこの殉死について語らせ、高村光太郎はその女性を『古代の穢れなき心」と評します。
そして、その1ヵ月強後の10月4日、第一回軍事援護美術展があり日名子の「サイパン」が発表されるわけです。
この「サイパン」が「サイパンの戦い」を示していることは間違いないでしょう。
ただし、サイパンの戦いで女性兵士がいたのかどうかは、『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』には書かれていませんでした。
しかし、前述のとタイムの記者ロバート・シャーロッドが1945年に出版した「On to Westward: The Battles of Saipan and Iwo Jima」では、『サイパンの在留邦人女性がアメリカ軍部隊に向け小銃を乱射し、最後に足を撃ち抜かれ野戦病院に収容された話が掲載されている』そうです。
Wiki
また、サイパンの戦いで自決を試み重傷を負うもアメリカ軍に救助された従軍看護婦の菅野静子が“サイパンのジャンヌ・ダルク”と1944年7月25日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで報道されたのだそうだ。
ただし、これらの情報を当時の日本人が知りえたのかはわかりません。
在留邦人女性と従軍看護婦...そのどちらも日名子の像とは異なります。
この像は、腰に弾薬盒を下げ、銃を立てかけながら、長い髪を梳かす姿です。
もしかしたら、「黒髪を櫛けづる」亡くなった女性と、米兵に乱射した在留邦人女性、また“サイパンのジャンヌ・ダルク”菅野静子の情報が入り混じり、日名子の描いた像となったのかもしれません。
この整理には、まだ情報が足りないようです。
ちなみに1944年の9月に始まったパラオのペリリューの戦いでは、『中川大佐配下の独立歩兵第346大隊長 A少佐の愛人芸者(慰安婦)がパラオの中心地のコロール島からペリリュー島にやってきて日本軍と一緒に戦い最期は機関銃を乱射アメリカ兵86人を死傷させ玉砕した』という、まさに日名子の像のままの伝説があるそうです。
もしかしたら、日名子のこの像が、その伝説をつくったのかもしれません。
彼の最後の発表作であり、謎の多い作品です。
まず、この作品は女性なのか、男性なのか?
女性であったとして兵隊なのか?
「サイパン」とは、日本軍が全滅した「サイパンの戦い」を描いたものなのか?
現状で分かっているのは、この作品が1944(昭和19)年の10月に行われた第一回軍事援護美術展に出品されているということだけです。
この謎を解くために、まずは当時「サイパンの戦い」が一般的にどのようにイメージされていたかを知らなくてはなりません。そして、特にサイパンにいた女性たちががどのように語られたのか知りたい。
そのため、フェミニストで女性史研究家の加納実紀代の著書『「銃後史」をあるく』より『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』をもとにまとめてみたいと思います。
まず、当時の日本国民がサイパン陥落を知ったのは、南雲中将が自決し、全軍が玉砕突撃した1944年の7月7日から10日後の7月18日。
この日のラジオによって大本営発表が伝えられます。
そして一ヵ月後の8月19日。朝日新聞の一面トップに『壮絶・サイパン同胞の最後/岩上、大日章旗の前/従容、婦女子も自決/世界驚かす愛国の精華』の見出しが掲げられます。これは、アメリカのタイムの記者ロバート・シャーロッドによるサイパンでの民間人死者にたいする記事を、大本営発表の内容に合わせ、殉死として変容した内容でした。
この記事では、『悠然、黒髪を櫛けづる』の小見出しで『(米軍の)海兵は女達が岩の上に悠然と立って長い髪を櫛けづるのを見てびっくりした』『息を殺してみつめているとやがて日本の女達は互いに手を取りあって静に水中にはいって行った』と入水自殺の情景を語っています。
21日には報知新聞でも『サイパン同胞かく自決せり 悲壮絶す!従軍記者の筆に偲ぶ実相』とタイムの記者による記事を取り上げ、『兵士自決の模範示す/婦女は黒髪梳って死出の化粧』とします。
さらに8月23日の朝日新聞では、高村光太郎や作家林芙美子、歌人中河幹子にこの殉死について語らせ、高村光太郎はその女性を『古代の穢れなき心」と評します。
そして、その1ヵ月強後の10月4日、第一回軍事援護美術展があり日名子の「サイパン」が発表されるわけです。
この「サイパン」が「サイパンの戦い」を示していることは間違いないでしょう。
ただし、サイパンの戦いで女性兵士がいたのかどうかは、『殉国と黒髪―「サイパン玉砕」神話の背景』には書かれていませんでした。
しかし、前述のとタイムの記者ロバート・シャーロッドが1945年に出版した「On to Westward: The Battles of Saipan and Iwo Jima」では、『サイパンの在留邦人女性がアメリカ軍部隊に向け小銃を乱射し、最後に足を撃ち抜かれ野戦病院に収容された話が掲載されている』そうです。
Wiki
また、サイパンの戦いで自決を試み重傷を負うもアメリカ軍に救助された従軍看護婦の菅野静子が“サイパンのジャンヌ・ダルク”と1944年7月25日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで報道されたのだそうだ。
ただし、これらの情報を当時の日本人が知りえたのかはわかりません。
在留邦人女性と従軍看護婦...そのどちらも日名子の像とは異なります。
この像は、腰に弾薬盒を下げ、銃を立てかけながら、長い髪を梳かす姿です。
もしかしたら、「黒髪を櫛けづる」亡くなった女性と、米兵に乱射した在留邦人女性、また“サイパンのジャンヌ・ダルク”菅野静子の情報が入り混じり、日名子の描いた像となったのかもしれません。
この整理には、まだ情報が足りないようです。
ちなみに1944年の9月に始まったパラオのペリリューの戦いでは、『中川大佐配下の独立歩兵第346大隊長 A少佐の愛人芸者(慰安婦)がパラオの中心地のコロール島からペリリュー島にやってきて日本軍と一緒に戦い最期は機関銃を乱射アメリカ兵86人を死傷させ玉砕した』という、まさに日名子の像のままの伝説があるそうです。
もしかしたら、日名子のこの像が、その伝説をつくったのかもしれません。
2019年5月12日日曜日
畑正吉 作 造幣局長 草間秀雄 レリーフ H.KUSAMA DIRECTOR OF THE IMPERIAL MINT
このレリーフは、メダルとしても用いられています。
草間秀雄は、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、大蔵属となり税務監督官、ロシア駐箚財務官、大蔵書記官、主税局国税課長、造幣局長となります。
1924年には造幣局長を辞し、朝鮮総督府財務局長、朝鮮銀行監理官、東洋拓殖監理官を歴任し、満洲採金株式会社副理事長等を勤めた...まぁエリートですね。
このレリーフが1924年に制作されていることから、造幣局を辞した記念であったと思われます。
畑正吉が、造幣局の賞勲局技術顧問としてメダルを手がけ始めたのが1915(大正4)年、それ以降、多くのメダルを造幣局からの依頼で制作し、特に1924年は、第一回明治神宮体育大会が行われ、畑正吉のメダルが多くの人の手に渡った年でした。
草間秀雄は、こうした畑の作品の後ろ盾とであったのではないかと想像します。
ただ、草間秀雄のレリーフを作品としてみると、顔に比べて体が平らで貧弱に感じるところが気になりますね。
しかし、『H.KUSAMA DIRECTOR OF THE IMPERIAL MINT』と全てを英文字で表し、サインまでもそうであることから、「欧米に肩を並べる我が国の造幣局」といった畑の気概を感じます。
当時に於いて、洒落たデザインであったろうと想像できます。
草間秀雄もそういった人物だったのかもしれません。
2019年5月6日月曜日
畑正吉作 第27代内閣総理大臣 濱口雄幸 レリーフ
1928(昭和3)年に起きた張作霖爆殺事件の責で田中義一内閣は総辞職。代わって濱口雄幸が内閣総理大臣に就任します。
1930(昭和5)年11月14日、濱口雄幸は午前9時発の神戸行き特急「燕」に乗車するため東京駅を訪れ、ホームを移動中に愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃されます。
この傷がもととなって翌年、亡くなります。
佐郷屋留雄は、明治41年、吉林省生まれ。満州で岩田愛之助の右翼団体愛国社には入り、戦後は血盟団事件の井上日召らと護国団を結成、後に団長となる人物です。
濱口首相襲撃事件は、1932年より始まる血盟団事件、その後の五・一五事件、二・二六事件の発端となる事件であり、こうして日本は右傾化していきます。
さて、ここでやっと濱口雄幸のレリーフについてです。
こうした歴史を思いつつ、このレリーフを見れば、歴史のモニュメントとして立ち上がってきます。
畑正吉は、濱口雄幸をモチーフにその時代を表現した...とも言えるかも知れません。
1930(昭和5)年11月14日、濱口雄幸は午前9時発の神戸行き特急「燕」に乗車するため東京駅を訪れ、ホームを移動中に愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃されます。
この傷がもととなって翌年、亡くなります。
濱口首相襲撃事件は、1932年より始まる血盟団事件、その後の五・一五事件、二・二六事件の発端となる事件であり、こうして日本は右傾化していきます。
さて、ここでやっと濱口雄幸のレリーフについてです。
こうした歴史を思いつつ、このレリーフを見れば、歴史のモニュメントとして立ち上がってきます。
畑正吉は、濱口雄幸をモチーフにその時代を表現した...とも言えるかも知れません。
2019年5月4日土曜日
畑正吉作 新聞人 守屋善兵衛 レリーフ
これからは、私が託された畑正吉作レリーフの紹介を増やしていきたいと思っています。
多分、あまり表に出ない作品であり、様々な研究等で興味持って頂ければ嬉しいですね。
このようなレリーフは、対象とする人物への賞賛や、その像を用いた顕彰等の目的があって畑正吉に依頼された作品だと思われます。
一部はメダルに使用されたのが分かっていますが、殆どの目的が不明です。
この「守屋善兵衛」のレリーフもどのような目的で制作されたものでしょう。
レリーフの裏側には、「守屋善兵衛」と「大正2(?)年作」の文字が書かれています。
大正2年だとすれば、畑正吉が東京美術学校教授に就任した年です。
さて、「守屋善兵衛」ですが、彼の名を冠したコレクションが目黒区の守屋図書館に寄贈されています。
その多くが彼が設立、または関わった新聞で、「台湾日日新報」や「満州日日新聞」です。
守屋善兵衛は、1898(明治31)年に台湾新報と台湾日報を合同して台湾日日新報を経営し、その後、満州日日新聞、満州の教育貯蓄銀行、東京動産火災保険などの重役を務めた人です。所謂新聞人ですが、外地の新聞に関わった人物なんですね。
この図書館には銅像も建っています。
この守屋善兵衛と畑正吉がどのように繋がるのか、興味がわきます。
例えば、畑の台湾関連の仕事にはこういうものもあります。
台湾勧業共進会メダル
また、台湾の彫刻家、黄土水が東京美術学校に入学したのが大正4年ですから、日本と台湾が身近になっていった時期に、畑正吉は東京美術学校教授であったということなのかもしれません。