1937(昭和12)年に出版された『東西美術大集 : 絵画彫刻工芸」には古今東西の美術品を集め、その解説書には木村荘八、太田三郎、田辺孝次、仲田定之助、藤川勇造らが各作品について解説を行っており、当時の美術観を垣間見る事ができます。
その中に、メダル史について畑正吉が語っている文章があります。
短い文章ですが、彼や当時のメダルに関わる作家の考えを理解でき、私にとってはかなり興味深い文章です。
下にその文章を載せます。(旧仮名遣いは変えてあります。)
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工芸作品には工作の如何により大なる変化を与えるものである。
メダルの開祖伊太利のピサネロ(十四世紀)の鋳銅のメダルから、のち希臘、羅馬の貨幣と同様の方法で作られた直彫の極印(鋼鉄の鏨を以て陰刻したメダルの型)から圧印したものには、また別種の趣を呈し、今日も作られている。然るにこの期の末からじかぼりの極印即ち彫金の外に仏蘭西に於いて縮彫機械(マツシーヌ・ド・レヂュクション)を発明され、為に所用メダル数倍の塑像原型から鋼鉄へ彫刻されるようになった。
この縮彫された極印によって、さらに一変化を与えたのである。
この過渡期に際しシャプラン、シャルパンチェ、ローチなどは最も苦心し、図に見るが如き特色ある、またメダル本来の目的にかなった作品ができたのである。図の如くシャプランとローチはまだじかぼりの風を帯びているが、シャルパンチェは塑像彫刻の縮図のようであってこれは全く縮彫機械によって起った変化である。故にこの機械最初の発明者コンタマンとこれを完成したヂュヴァルとジャンヴィエの三氏も忘れることができない。
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ピサネロをメダル芸術の祖とし、シャルパンチェ(ALEXANDRE CHARPENTIER)を縮彫機を用いた近代メダルの祖としています。
芸術性だけでなく、新しい技術を以って、メダルの時代を分けているのですね。
2018年12月16日日曜日
2018年12月11日火曜日
女子中等対抗陸上競技会 東京跳躍競歩 メダル
このメダルに刻まれていることを素直に読めば、1941年(紀元2601年、昭和16年)に東京陸上競技協会主催で行われた「女子中等対抗陸上競技会」において東京跳躍競歩に出場した選手に与えられたメダルだと言えます。
ですが、よく分かりません。
まず、「女子中等」とは中等教育を受けている女性を指すのでしょうか?
であれば、それは「高等女学校」に通う女性と言う意味であり、そういった女学校の生徒のみの大会が行われたことになります。
当時の女学生と言えば、昭和に入っていると言えど、お嬢様たちだったと思います。
そういった彼女たちが行う陸上競技大会のメダルがこれだったわけです。
この、いかつい男の姿が描かれたメダルが!!!
はたして、お嬢様たちはこのメダルを受取って喜べたのでしょうか??
また、このメダルの作者ですが、銘がでかでかとあるのですが、こちらもよくわかりません。
以前、小平市平櫛田中彫刻美術館で行われ、私も参加しましたメダルの展示では、このメダルと同型の作品が展示されていました。
そちらは昭和7年に行われた「第十六回関東学生陸上競技対抗選手権」のメダルで、安永良徳作と紹介しています。
そのメダルには「Re」の刻印がありますが、私の「女子中等対抗陸上競技会 東京跳躍競歩」メダルにはありません。
そして、私の方のメダルの銘は、安永のものとは異なります。
安永作品であるのかないのか、断言できる材料が今のところありません。
2018年12月9日日曜日
日名子実三作 建築学会「建築展覧会賞」メダル
日名子実三による 建築学会の「建築展覧会賞」メダルです。
建築学会は明治期より続いている学会で、現在は「日本建築学会」と称しています。
メダルの左上に「福田欣二君」とあり、昭和8年11月に、彼が建築展覧会でなんらかの賞を得た事がわかります。
「福田欣二」は石本建築事務所顧問となった人物で、1956年出版の「建築デザイン機構の展望とその発展」の著者のようです。
メダルの中央には、ロダンの考える人のように思想する人物が、建築を連想させる幾何学的な構成の中で静かに座っています。
裏側には最古の木造建築、法隆寺の五重塔が、その前には朱雀か鳳凰か、鳥が描かれています...
鳥??
どうみてもグリフォンなのですが、こういった4つ足の鳥の像ってあるのでしょうか?
それとも、このメダルの図柄に似たような海外のメダルがあり、それを元に日名子が日本風にアレンジしたのでしょうか?謎です。
日名子の河童のメダルと並んで、リアルUMAシリーズの一品ですね。
ちなみに原型は大分県立美術館が所蔵しています。
http://opamwww.opam.jp/collection/detail/work_info/7235
戦時下の建築、建築の戦争責任について、現在までかなり色々と議論がされてきているようです。
うらやましい。
彫刻というものは、建築から他者性を抜いたものなのでしょう。
そのため、建築ほど言葉を必要としません。
その結果、彫刻の戦争責任論も他者を抜いた言葉の無いものになってしまったのではないかと思います。
であるならば、逆に考えてみても良いかもしれません。
つまり、建築に用いられた議論を参照し、戦時下の彫刻を語る言葉を捜す事ができるかもしれません。