彫刻家で詩人の土方久功は、膨大な日記を残しており、現在それは国立民族博物館に所蔵されています。
この本は、その内容を読み解いて、まさに「正伝」として書かれたものです。
私もこの日記をいつかは読んでみたいと思っていますが、いつのことになるやら...
さて、本書では土方の南洋生活を中心に書かれているわけですが、やっぱり私の気になるところは、土方が私の地元岐阜県に疎開してからのエピソードです。
昭和19年から23年まで、岐阜県可児市の土田(当時は土田村)に疎開した土方ですが、体調を崩し思うような生活はできなかったようですね。
それでもいくつか当地の詩を残していまして、抜粋ですが
『...夏ノ終ワリカラ秋ニカケルト 大田ノ町ノ裏手ノ 山ノ上ノ果樹園二 梨ガ 葡萄ガ 富有柿ガミノリ...」などとあります。
土方が住んでいたのは可児市で、木曽川を挟んで向かい側に美濃加茂市の太田町がありました、昭和2年にできた大田橋を渡り、太田に来ることができたようです。
「山ノ上」とは太田町の北にある山之上町を指していると思われ、現在でも果樹が多く栽培されています。中でも有名なのが「堂上蜂屋柿」で、土方も「富有柿」と品種で呼んでいます。
昭和21年には、岡本一平が西白川村から加茂郡古井町(現美濃加茂市古井町)に引っ越してきます。亡くなったのが23年なので、土方の土田時代と重なりますが、二人に交流は無かったようです。
それと、現在土田にある立派な病院「地域医療機能推進機構可児とうのう病院」が土方夫妻が建てた診療所兼住宅だった病院が発展したものかどうか確認取れていません。
>昭和21年5月「健康保険土田病院」として開設
とサイトにあるので建てられた時期は合うのですが。
さて、画像は土方久功の1955年の個展葉書です。
土方の3回目の個展にあたり、木彫レリーフを20数点、ブロンズ4点とパラオ時代の絵画を展示したようです。
送り先は「中村博三郎」宛てで、彼は「明治の彫塑」の著者である近代彫刻の研究者ですね。
2017年6月16日金曜日
2017年6月4日日曜日
亀山上皇銅像 儀損金の領収書
面白い資料が手に入りました。
元寇記念碑設立の為の儀損金の領収書です。
元寇記念碑設立の為の儀損金の領収書です。
元寇記念碑は、現在でも福岡市に建っています亀山上皇の銅像を指します。
上皇の絵葉書を持っているかと探してみましたが見当たらず。
しょうがないので、Wkiの画像
この像は、福岡県警務部長だった湯地丈雄氏等によって明治37(1904)年に建立されます。
実は亀山上皇のある東公園近くに、竹内久一作の日蓮上人像も建っています。
企画は亀山上皇像の方が先でしたが、建立は日蓮上人像の方が僅差で少し早いのですよね。
その理由に日蓮上人像のバックに、東京美術学校と(プライドの高い)岡倉天心がいたからではないでしょうか?
そして、もう一つ理由があるのですが、それは後に書きます。
銅像の原型は山崎朝雲。
その原型木造も現存します。
以前、山崎朝雲による「敵国降伏」の書を紹介しました。
「敵国降伏」は亀山上皇の言であり、福岡市の銅像の台座にも刻まれています。
その繋がりで、この書があったのかもしれません。
さて、上記の領収書ですが、明治29年と書かれています。
15銭を儀損金として支払ったようです。
現在に換算すると3000円くらいのようです。まぁ、義理で出せる金額ってとこでしょうか。
この儀損金、最終的にはいくら集まったのでしょうね。
とはいえ、この集金の一部は使われなかったと思われます。
それが先に書きました、亀山上皇像の建立が遅れた理由の一つで、実はこの集まった儀損金は横流しされたようなのです。
下の記事を参考にさせて頂きました。
明治25(1892)年、時の松方内閣は解散を行い、第2回衆議院議員選挙が行われます。
その時、内務省と地方の知事によって選挙干渉が大々的に行われ、警察の動員によって死者を出す結果となります。
安場保和知事であった福岡県でも2名の死者が出て、その結果、安場知事は辞任することになります。
この時、元弘記念碑のために集められた金が、選挙干渉の為の資金として使用されたと言います。
そして、上皇像設立企画は頓挫、日蓮上人像のバーターとして上皇像の建立が再企画されるまで時間がかかったというわけです。
藩閥政治下にとって、野党は、元寇と同じだったってわけでしょうか。
この銅像の最初期の図案は、元寇に対峙する騎馬像だったと言います。
すべての儀損金が無事であれば、現在以上に大きな銅像が建っていたかもしれません。
それと、この領収書には手紙が同封されていたのですが...まったく読めません...
もし、先に書きました流用の件について何か書かれているとすれば面白いのですが...