ぎふ中部未来博覧会は、1988年に岐阜市で行われた地方博です。
私の地元のはずなのですが、まったく記憶が無い...
まぁ、それは良いとして、このイベントに岡本太郎が関わり、モニュメントを制作します。
その理由は、岐阜が父一平の最後に暮らした地だったからだとか言われていますが、どうなのでしょう。
そのモニュメントのデザインは、このメダルの元となったもので、現在でも岐阜メモリアルセンターに建っています。
岡本太郎のメダルでは、他に72年の札幌冬季オリンピック記念のものと、ミュンヘンオリンピック記念のものとを持っているのですが、そのデザインは誰から見ても岡本太郎とわかるもので、そういう点では優れていると言えるのですが、ただつまらない。
それは、犬山の「若い太陽の塔」や三重県営サンアリーナの「であい」、久国寺の梵鐘「歓喜の鐘」なんかもそうなのですが。それに彫刻的な気持ちよさが皆無なんですよね。
彫刻と言うのは、その造詣に視覚的で触感的な快楽の要素ってあるのものなのですが、岡本太郎作品にはそれがない。
それはそれで、すごいことなのですけどね。
2016年1月31日日曜日
2016年1月24日日曜日
鎌倉近代美術館 「その後の円空彫刻展」絵葉書
今月の31日をもって閉館される鎌倉近代美術館(現 神奈川県立近代美術館 鎌倉館)に関する資料は何か無いかと探していたら見つかりました。
1963年5月に鎌倉近代美術館で行われた「その後の円空彫刻展」の絵葉書です。
「その後の...」と付くにはその前があるはずで、1960年に「円空上人彫刻展」が行われています。
それだけでなく、この文言には、1957年に岐阜県立図書館で開催した円空上人彫刻展から始まった円空ブームの「その後」という意味もあるのでしょう。
時は高度成長期、 集団就職で地方から都会へと人が流れていく中で、寒村から発見される円空仏たち。これらは「オラが村のハイカルチャー」として、地方に目を向けるきっかけになり、それゆえにブームとなったのでしょう。
そう、円空仏は、ハイカルチャーとして、モダンな表現主義的な彫刻として橋本平八らに発見されたわけですが、地元の人からしたら、それは土着信仰の対象です。
また、芸術とは、基本的に人工のものを至高とする文化ですが、それに対して円空上人は自然信仰、自然の中に神を見出します。
そういったまったく異なる美のベクトルを持っているの円空仏の魅力であり、橋本平八の魅力です。
先日、映画 『みんなのアムステルダム国立美術館へ』 という アムステルダム国立美術館改装のドタバタを描いたドキュメンタリーを観ました。
そこの日本美術のコレクション(仁王像)になされた日本人坊主による奉納式は、見てて変なんですよ。
日本の古き美を、現代の眼でしか見ることができないという矛盾。そしてそれが歴史であるという現実。その歪みを海外からだと特に強く思うわけです。
円空仏は、そういった歪みを特にも持つ「彫刻作品」ですね。
2016年1月4日月曜日
Intermission 金沢21世紀美術館にて 生誕百年記念 井上有一展を観る。
まとめて拝見したのはこれが始めて。
圧倒!
素晴らしい展覧会でした。
分厚いカタログも買っちゃった。
井上有一の書はどこかせつない。
センチメンタルとまで言わないが、 それがどれだけ激しい筆使いでもカワイサや愛嬌がある。
だから「花」なんて書くとちょっと鼻についたりもする。
それが「文字」が持つものなのか、字体ゆえか。
写真もOKとのことで、ありがたい。
上の写真は、井上有一の「噫横川国民学校」。
漫画「とめはねっ!」でも大きく扱われていましたね。
東京大空襲によって、教員であった井上の教え子たちが目の前で焼き殺されていく様子を描いた書。
「アメリカB29夜間東京空襲 闇黒東都忽化火海 江東一帯焦熱地獄...親は愛児を庇い子は親に縋る...全員一千折り重なり 教室校庭に 焼き殺さる...噫呼何の故あってか無辜を殺戮するのか...倉庫内にて聞きし親子断末魔の声 終生忘るなし」
美術館には多くの外国人、特にアジア系の人が多くいらっしゃっていました。
「漢字」を展示したこの展覧会では、彼らも面白く見ることができたのではないかと。
けど、この「噫横川国民学校」はどう見たのだろう?
井上有一の評価というのは、「とめはねっ!」でもあったような、貧しさの中でも純に書に取組んだ作家というものなのでしょうが、 辻惟雄、村上隆著「 熱闘! 日本美術史」の中で、村上さんがバブル時期に持ち上げられた故の鼻持ちならなさを語っていて、そういう見方もあるんだなとちょっと面白く読みました。