2015年2月22日日曜日
第二回大東亜戦争美術展覧会出品 「撃滅」 峰考 新田実(共同作品)
第二回大東亜戦争美術展覧会出品は、1943(昭和18)年12/8~から翌年1/9まで行われた展覧会です。
辻晋堂、中村直人、横江嘉純など有力な中堅作家が多数参加しています。
この作品で見ていただきたいのが、二人の作家による共同作品だという点です。
現在でも、コラボレーションとして異種の作家や、またそれぞれの作家の持ち味を生かしての制作という手法はありますが、このようにどの作家がどこまで手を入れたのかわからないような作品はあまり目にすることが無いかと思います。
それを可能にしたのが、この時代性です。
明治以降、例えば皇居の楠木正成像のように、高村光雲以下多数の作家が参加して制作したモニュメントなどがありました。
しかし、 高村光太郎が『人が「緑色の太陽」を画いても僕はこれを非なりと言わないつもりである。』と個性やオリジナリティの価値を高く掲げた後には、芸術の本質がそこにあると考えられるようになりました。
そして戦争の時代、再び「時代のモニュメント」として共同制作による作品に価値が与えられるようになったのです。
個性やオリジナリティを殺してでも、この時代を表すこと、日本の戦争の時代であることの価値を掲げることに主題が変わりました。
また、この時代は、新文展といった官展だけでなく、大東亜戦争美術展覧会や聖戦美術展のような軍部主導の展覧会が数多く行われました。
ここでは、見た目に何が描かれているかわかり易く、戦う兵士への祈りの対象となりえる彫刻への需要が高く、生産性の低い彫刻作品でも数多く必要とされました。
そういった時間の制約もあって、共同制作といった手法による制作の必要があったと言えます。
これを現代の目で見て、芸術ではないと言うのは簡単なのかもしれません。
しかし、これを美術史から外してしまえば、この線上にある日本の美術史が歪んでしまうと思うのです。
2015年2月15日日曜日
作者不詳の彫刻
最近手に入れた作者不詳の作品です。
「1950 I H(?)」とありますがはっきりしません。
モデルは、掌の赤ん坊で、蓮(?)かなにか花を握っています。
仏教の逸話か何かかもしれないと探しましたがこれもはっきりしませんでした。
というわけで謎の彫刻。
飾って楽しんでいます。
2015年2月1日日曜日
Intermission 奇書! 浅利篤著「児童画とセックス」
昭和34年発行の浅利篤著「児童画とセックス」です。
この衝撃的な題名の本では、多くの児童画を紹介しながら、そこに現れる病理を解明していきます。
かいつまんで言えば、作者は児童画に現れる「赤」と「緑」は性を象徴する色であると主張しおり、そこに病理が現れるのだと。
心の病をその絵から読み解く心理検査は、ロンブローゾの時代から現代でも行われいることでしょうし、その絵に表れるイメージに何かしらの意味づけすることもあるでしょう。
心が性と深いかかわりを持つというのは、フロイトの言うリビドーといったもののように、あることなのかもしれません。
では、何がこの本を奇書としているかと言えば、そういった病理を児童画と、そして性(セックス)とを結び付けていることです。
それがショッキングに思える理由の一つは、子供と性(セックス)という隠しておきたい事柄を直接的に結び付けている点にあるでしょう。
また、児童画とは、かつて自由画と呼ばれ、「大正期の美術教育運動の中で「児童の個性と創造性の開発をめざして山本鼎(かなえ)によって提唱されたもの」であり、そこには、美に対する理想郷として児童画(自由画)がありました。
この本は、そんな美の理想郷に病理と性(セックス)を持ち込んだからだと言えます。
児童画だけでなく、アール・ブリュットに対しても、社会から離れた美の理想郷としてそれを見る人があるようですが、ここに薄ら汚れた人間が土足で入り込んだ印象をもたらしています。
ですが、よくよく考えてみれば、この社会に繋がりを持たないものなど無く、理想郷などそれこそ夢物語でしかありません。
アール・ブリュットなどのある種の美に対し、特権をもたらしているのは私たちの方なのだと、この本は言っているようにさえ思えます。
「児童画とセックス」 だけでなく、「アール・ブリュットとセックス」だってありえるのですね。
昨今、障害者と性が話題になることがありますが、それは大切なことだと思えます。
ただし、そういったことを視覚化しようとする思いだけでなく、隠してしまこともまた、人間の「美意識」なのであり、美術もまたそれぞれに特権を与えることで加担しているのだという自覚が必要なのだと思います。